・・・あまりに犬の猛獣性を畏敬し、買いかぶり節度もなく媚笑を撒きちらして歩いたゆえ、犬は、かえって知己を得たものと誤解し、私を組みしやすしとみてとって、このような情ない結果に立ちいたったのであろうが、何事によらず、ものには節度が大切である。私は、・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・辰野隆先生を、ぼんやり畏敬していた。私は、兄の家から三町ほど離れた新築の下宿屋の、奥の一室を借りて住んだ。たとい親身の兄弟でも、同じ屋根の下に住んで居れば、気まずい事も起るものだ、と二人とも口に出しては言わないが、そんなお互の遠慮が無言の裡・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽。 太宰治 「トカトントン」
・・・私、フランスのむかしの小説家の中で、畏敬しているもの、メリメ。それから、辛じて、フィリップ。その余は、名はなくもがなと思っている。淀野隆三、自らきびしく、いましめるところあってか、この本のあとにもさきにも、原作者フィリップに就いて、ほとんど・・・ 太宰治 「碧眼托鉢」
・・・実際子規と先生とは互いに畏敬し合った最も親しい交友であったと思われる。しかし、先生に聞くと、時には「いったい、子規という男はなんでも自分のほうがえらいと思っている、生意気なやつだよ」などと言って笑われることもあった。そう言いながら、互いに許・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・まことに畏敬すべきなり。およそ人の文辞に序する者、心誠これを善め、また必ず揚※をなすべきあり。しからずんば、いたずらに筆を援りて賛美の語をのべ、もって責めを塞ぐ。輓近の文士往々にしてしかり。これ直諛なるのみ。余のはなはだ取らざるところなり。・・・ 中江兆民 「将来の日本」
・・・しかもわれらが斃れる時、われらの烟突が西洋の烟突の如く盛んな烟りを吐き、われらの汽車が西洋の汽車の如く広い鉄軌を走り、われらの資本が公債となって西洋に流用せられ、われらの研究と発明と精神事業が畏敬を以て西洋に迎えらるるや否やは、どう己惚れて・・・ 夏目漱石 「マードック先生の『日本歴史』」
・・・一たびこれに接して畏敬の念を生じたる春岳はこれを聘せんとして侍臣をして命を伝えしめしも曙覧は辞して応ぜざりき。文を売りて米の乏しきを歎き、意外の報酬を得て思わず打ち笑みたる彼は、ここに至って名利を見ること門前のくろの糞のごとくなりき。臨むに・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ クリンガーの芸術に畏敬と愛を感じながらも、その一つ一つを模写することは自分の真の成長にとって危険なことだと直感していたことは、ケーテの画家としての本質的な健康さであったと思う。 やがて予定の伯林滞在の期限がすんで、ケーテ・シュミッ・・・ 宮本百合子 「ケーテ・コルヴィッツの画業」
・・・豊かに物をもっている人に対する社会人としての習慣的な畏敬めいた気分も我知らず加って、進駐軍は、好評をもってみられていると云えるであろう。 ところが、そのような進駐軍の明るさが、そのまま曇りない明朗さとして、日本人の感情に影響しているかと・・・ 宮本百合子 「その源」
出典:青空文庫