・・・かれの言いぶんに拠れば、字義どおりの一足ちがい、宿の朝ごはんの後、熱い番茶に梅干いれてふうふう吹いて呑んだのが失敗のもと、それがために五分おくれて、大事になったとのこと、二人の給仕もいれて十六人の社員、こぞって同情いたしました。私なども編あ・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・また配給の三合の焼酎に、薬缶一ぱいの番茶を加え、その褐色の液を小さいグラスに注いで飲んで、このウイスキイには茶柱が立っている、愉快だ、などと虚栄の負け惜しみを言って、豪放に笑ってみせるが、傍の女房はニコリともしないので、いっそうみじめな風景・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・それから、番茶を一ぱい下さい。」「ちえっ、」少年は躊躇なく私をせせら笑った。「ちゃっかりしていやがら。」 私は、溜息をついた。なんと言われても、致しかたの無いことである。私は急に、いやになった。こんなに誇りを傷つけられて、この上なに・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・白馬驕不行の碾茶の茶碗は流石にてれくさい故をもってか、とうのむかしに廃止されて、いまは普通のお客と同じに店の青磁の茶碗。番茶を一口すすって、「僕のこの不精髭を見て、幾日くらいたてばそんなに伸びるの? と聞くから、二日くらいでこんなになってし・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・がぶがぶ番茶を呑んでいる。「あたし、働く。」そう言って、自分にも意外な、涙があふれて落ちて、そのまま、めそめそ泣いてしまった。「もう、僕は、君をあきらめているんだ。」三木は、しんからいまいましそうに顔をしかめて、「君には、手のつけら・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・御家族の方たちは、みんな母屋のほうにいらっしゃって、私たちのために時たま、番茶や、かぼちゃの煮たのなどを持ち運んで来られる他は、めったに顔をお出しなさらぬ。 黄村先生は、その日、庭に面した六畳間にふんどし一つのお姿で寝ころび、本を読んで・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・ 手元が見えなくなるまで、真黒になって働いていた年寄りは、食事をすませると火鉢の傍で、煮がらしの番茶を飲んでいた。 いつともなく禰宜様宮田の丁寧なお辞儀の仕振りなどを思い出していた彼女の心には、不意に思いがけずあの妙法様がお乗りうつ・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ 一仕事すんだくつろぎで番茶をのんでいると小枝子が、「きょうの『女の言葉』よみました?」と二人に向ってきいた。「朝日のでしょう? まだ見なかったわ、何か出ているの?」「ある女のひとが投書しているんですけれどね、電車のなか・・・ 宮本百合子 「二人いるとき」
・・・ お清は、生真面目な顔と様子で番茶を注ぎ出した。その真面目さが、みのえを擽った。みのえは、肩揚げのある矢絣の羽織の肩に自分の顎をのせるようにして油井を見ながら、眼と唇とで笑った。油井は、ちらりとみのえの笑いを照りかえしたが、素早く口元を・・・ 宮本百合子 「未開な風景」
・・・所謂閼伽桶の中には、番茶が麻の嚢に入れて漬けてあったのである。 この時玄関で見掛けた、世話人らしい男の一人が、座敷の真ん中に据わって「一寸皆様に申し上げます」と冒頭を置いて、口上めいた挨拶をした。段々準備が手おくれになって済まないが、並・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫