・・・同氏は薬罎を手に死しいたるより、自殺の疑いを生ぜしが、罎中の水薬は分析の結果、アルコオル類と判明したるよし。」 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・なた一晩先に帰っていませば一晩だけよけい仕事ができるというものでございますから……私は御覧のとおりの青造ではございますが、幼少から商売のほうではずいぶんたたきつけられたもんで……しかし今夜ほどあらぬお疑いを被って男を下げたことは前後にござい・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ただ夏至のはじめの第一日、村の人の寝心にも、疑いなく、時刻も違えず、さらさらと白銀の糸を鳴して湧く。盛夏三伏の頃ともなれば、影沈む緑の梢に、月の浪越すばかりなり。冬至の第一日に至りて、はたと止む、あたかも絃を断つごとし。 周囲に柵を結い・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・幼い彼は命取らるる水とも知らず、地平と等しい水ゆえ深いとも知らずに、はいる瞬間までも笑ましき顔、愛くるしい眼に、疑いも恐れもなかったろう。自分はありありと亡き人の俤が目に浮かぶ。 梅子も出てきた、民子も出てきた。二坪にも足らない小池のま・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・が、とにかく、この地にとどまっている女でないことだけは分っていたから、僕の疑いは多少安心な方で、すでにかの住職にも田島に対する僕の間接な忠告を伝えたくらいであった。しかし、その後も、毎日または隔日には必らず会っている様子だ。こうなれば、男の・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 二葉亭は一時哲学に耽った事があったが、その哲学の根柢は懐疑で、疑いがあるから哲学がある、疑いがなくて仮定の名の下に或る前提を定めて掛るなら最うドグマであって哲学でないといっていた。が、一切の前提を破壊してしまったならドコまで行っても思・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・ 多くの人々の中には、身を海に投げてしまって、はたして、ふたたび生まれ変わるだろうかという疑いをもったものもおります。その人々は死なずに、どんな冒険でもやってみて、その島へたどり着きたいものだと思いました。そして、そのことを年よりの物知・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・ 三「実は、この間うちからどうもそんなような徴候が見えたから、あらかじめ御注意はしておいたのだが、今日のようじゃもう疑いなく尿毒性で……どうも尿毒性となると、普通の腎臓病と違ってきわめて危険な重症だから……どうです、・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・俄かやもめで、それもいたし方ないとはいうものの、ミルクで育たぬわけでもなし、いくら何でも初七日もすまぬうちの里預けは急いだ、やはり父親のあらぬ疑いがせきたてたのであろうか――と、おきみ婆さんから教えられたのは、十五の時でした。おきみ婆さんの・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 惣治には兄の亡霊談は空々しくもあり、また今ではその愛とか人道とかいうようなものを心得ているらしい口吻には疑いも感じられたが、酒精中毒という診断には心を動かされた。「しかし乱暴な話ですねえ。そんな動機からぴしぴし離縁状など出されては・・・ 葛西善蔵 「贋物」
出典:青空文庫