・・・二羽の黒い蝶の事、お島婆さんの秘密の事、大きな眼の幻の事――すべてが現代の青年には、荒唐無稽としか思われない事ですが、兼ねてあの婆の怪しい呪力を心得ている泰さんは、さらに疑念を挟む気色もなく、アイスクリイムを薦めながら、片唾を呑んで聞いてく・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・おとよの心には多少の疑念があるだけ、直ちにおはまに同情はしないものの、真に悲しいおはまの泣き音に動かされずにはいられない。仕方がないから、佐倉へ降りる。 奥深い旅宿の一室を借りて三人は次ぎの発車まで休息することにした。おはまは二人の前に・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・真剣であるならば、その態度に対して、第三者は、いさゝかの疑念をも挾むことができないだろう。即ち、作家の態度が第一義に即しているならば、――独り作家に限らない、すべての思想家がまた、――それは、粛殺な気にみち、理想を追求し、信念に燃えているの・・・ 小川未明 「正に芸術の試煉期」
・・・彼は老父たちにさえそうした疑念を抱かせないような具合にして、いつの間にかするりと家を脱けていたんだからね、よほど悧巧なところがある」「そりゃ惣治さんの方は苦労してるからあなたとは違いますとも。だからあなたもいっそ帰ってなぞこなければよか・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・井伏さんが本心から釣が好きということについては、私にもいささか疑念があるのだが、旅行に釣竿をかついで出掛けるということは、それは釣の名人というよりは、旅行の名人といった方が、適切なのではなかろうかと考えて居る。 旅行は元来手持ち無沙汰な・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ところが、このごろ、ふっと或る種の疑念がわいて出た。なぜ、この人たちは働かないのかしら。たいへん素朴な疑念であった。求めて職が得られないならば、そのときには、純粋に無報酬の行為でもよい。拙なくても、努力するのが、正しいのではないのか。世の中・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ふと、僕はいまわしい疑念にとらわれた。ひょっとすると敷金のつもりなのではあるまいか。そう考えたのである。それならこれはいますぐにでもたたき返さなければいけない。僕は、我慢できない胸くその悪さを覚え、その熨斗袋を懐にし、青扇夫婦のあとを追っか・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・ けれども、このごろ、気味の悪い疑念が、ふいと起って、誇張ではなく、夜も眠られぬくらいに不安になった。その殿様は、本当に剣術の素晴らしい名人だったのではあるまいか。家来たちも、わざと負けていたのではなくて、本当に殿様の腕前には、かなわな・・・ 太宰治 「水仙」
・・・そのうちに、私は荒涼たる疑念にとらわれはじめたのである。私はいったい誰だろう、と考えて、慄然とした。私は私の影を盗まれた。何が、フレキシビリティの極致だ! 私は、まっすぐに走りだした。歯医者。小鳥屋。甘栗屋。ベエカリイ。花屋。街路樹。古本屋・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・たったいままで読んでいたという形のつもりかも知れないが、それもまた、あまりにきちんとひらかれて置かれているので、かえって彼が、その本を一ページも読まなかったのではなかろうかという失礼な疑念がおのずから湧き上るのを禁じ得なかったくらいであった・・・ 太宰治 「母」
出典:青空文庫