・・・ 惣治はいよいよ断末魔の苦しみに陥っていることを思いながらも、耕吉もそうした疑惑に悩まされて行った。 葛西善蔵 「贋物」
・・・ このような疑惑は思いの外に執念深いものである。「切符切り」でパチンとやるというような、児戯に類した空想も、思い切って行為に移さない限り、われわれのアンニュイのなかに、外観上の年齢を遙かにながく生き延びる。とっくに分別のできた大人が、今・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・しかし速力が緩み、風の唸りが消え、なだらかに橇が止まる頃には、それが空耳だったという疑惑が立罩める。「どうだったい」 晴ばれとした少年の顔からは、彼女はいずれとも決めかねた。「もう一度」 少女は確かめたいばかりに、また汗を流・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ お富はお秀の様子を一目見て、もう殆ど怪しい疑惑は晴れたが、更らに其室のうちの有様を見てすっかり解かった。 お秀の如何に困って居るかは室のうちの様子で能く解る。兼ねて此部屋には戸棚というものが無いからお秀は其衣類を柳行李二個に納めて・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・不平もある、反抗もある、冷笑もある、疑惑もある、絶望もある。それでなお思いきってこれを蹂躙する勇気はない。つまりぐずぐずとして一種の因襲力に引きずられて行く。これを考えると、自分らの実行生活が有している最後の筌蹄は、ただ一語、「諦め」という・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・その小説の描写が、怪しからぬくらいに直截である場合、人は感服と共に、一種不快な疑惑を抱くものであります。うま過ぎる。淫する。神を冒す。いろいろの言葉があります。描写に対する疑惑は、やがて、その的確すぎる描写を為した作者の人柄に対する疑惑に移・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・私の疑惑が、まんまと的中していたのだ。変らない。これは批評の言葉である。見せ物は私たちなのだ。「そうか。すると、君は嘘をついていたのだね。」ぶち殺そうと思った。 彼は私のからだに巻きつけていた片手へぎゅっと力こめて答えた。「ふび・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・ 私は上品な芸術家に疑惑を抱き、「うつくしい」芸術家を否定した。田舎者の私には、どうもあんなものは、キザで仕様が無かったのである。 ベックリンという海の妖怪などを好んでかく画家の事は、どなたもご存じの事と思う。あの人の画は、それこそ・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・事を構えて欠席したら、或いは、金を貸さなかったから出て来ないのだと、まさかそんなことは有るまいけれど、もし万一そのような疑惑を少しでも持たれたなら、私は死ぬる以上に苦しい。決して、そんなことは無いのだ。あの時のことは、かえって真実ありがたく・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一・・・ 太宰治 「走れメロス」
出典:青空文庫