・・・喜三郎は心配の余り、すぐにも医者を迎えたかったが、病人は大事の洩れるのを惧れて、どうしてもそれを許さなかった。 甚太夫は枕に沈んだまま、買い薬を命に日を送った。しかし吐瀉は止まなかった。喜三郎はとうとう堪え兼ねて、一応医者の診脈を請うべ・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・私は一人の病人と頑是ないお前たちとを労わりながら旅雁のように南を指して遁れなければならなくなった。 それは初雪のどんどん降りしきる夜の事だった、お前たち三人を生んで育ててくれた土地を後にして旅に上ったのは。忘れる事の出来ないいくつかの顔・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・枕許に薬などあり、病人なりしなるべし。 思わずも悚然せしが、これ、しかしながら、この頃のにはあらじかし。 今は竹の皮づつみにして汽車の窓に売子出でて旅客に鬻ぐ、不思議の商標つけたるが彼の何某屋なり。上品らしく気取りて白餡小さくしたる・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 死ぬときまった病人でも、死ぬまでになお幾日かの間があるとすれば、その間に処する道を考えねばならぬ。いわんや一縷の望みを掛けているものならば、なおさらその覚悟の中に用意が無ければならぬ。 何ほど恐怖絶望の念に懊悩しても、最後の覚悟は・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 僕の家は、病人と痩せッこけの住いに変じ、赤ん坊が時々熱苦しくもぎゃあぎゃあ泣くほかは、お互いに口を聴くこともなく、夏の真昼はひッそりして、なまぬるい葉のにおいと陰欝な空気とのうちに、僕自身の汗じみた苦悶のかげがそッくり湛っているようだ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・殊に軽焼という名が病を軽く済ますという縁喜から喜ばれて、何時からとなく疱瘡痲疹の病人の間食や見舞物は軽焼に限られるようになった。随ってこの病気が流行れば流行るほど、恐れられれば恐れられるほど軽焼は益々繁昌した。軽焼の売れ行は疱瘡痲疹の流行と・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・いったい、医者というものをなんと心得「おじいさん、せっかくだが、私は、これから急病人の迎えを受けているので、出かけなければならないのだ。だからすぐみてあげることができない。どうか、よそへいってもらいたい。」 院長は、そばに、まごまご・・・ 小川未明 「三月の空の下」
・・・と腰をさすりさすり病人厭言を言う。 お光は済ましたもので、「そうね、自分がなって見ないことにゃ何とも分りませんね」 と、言っているところへ、階子段の下から小僧の声で、「お上さん、お上さん」「あいよ。何だね、騒々しい!」「お上・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 温泉場のことゆえ病人も多く、はやりそうな気配が見えたので、一回二十銭の料金を三十銭に値上げしたが、それでも結構患者が集まった。「――どうです? 古座谷さん、この繁昌りようは、実際わしの思いつきには……」 さすがに驚きはしたが、・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・何しろ運わるく妻が郷里に病人が出来て帰って居る、……そんなこんなでね、余り閉口してるもんだからね。……」「……そう、それが、君の方では、それ程大したことではないと思ってるか知らんがね、何にしてもそれは無理をしても先方の要求通り越しちまう・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫