・・・蘭袋はその日も酒気を帯びて、早速彼の病床を見舞った。「先生、永々の御介抱、甚太夫辱く存じ申す。」――彼は蘭袋の顔を見ると、床の上に起直って、苦しそうにこう云った。「が、身ども息のある内に、先生を御見かけ申し、何分願いたい一儀がござる。御聞き・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・そのまた枕もとには看護婦が一人、膝の上にひろげた病床日誌へ近眼の顔をすりつけるように、せっせと万年筆を動かしていた。 看護婦は洋一の姿を見ると、ちょいと媚のある目礼をした。洋一はその看護婦にも、はっきり異性を感じながら、妙に無愛想な会釈・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ その翌日から、妻は年中堪えに堪えていたヒステリが出て、病床の人となった。乳飲み児はその母の乳が飲めなくなった。その上、僕ら二人の留守中に老母がその孫どもに食べ過ぎさせたので、それもまた不活溌に寝たり、起きたりすることになった。 僕・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・種吉の所へ行き、お辰の病床を見舞うと、お辰は「私に構わんと、はよ維康さんとこイ行ったりイな」そして、病気ではご飯たきも不自由やろから、家で重湯やほうれん草炊いて持って帰れと、お辰は気持も仏様のようになっており、死期に近づいた人に見えた。・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・十月いっぱい私はほとんど病床で暮した。妻の方でも、妻も長女も、ことに二女はこのごろやはり結核性の腹膜とかで入院騒ぎなどしていて、来る手紙も来る手紙もいいことはなかった。寺の裏の山の椎の樹へ来る烏の啼き声にも私は朝夕不安な胸騒ぎを感じた。夏以・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・「彼女はきっと病床から脱け出して来たものに相違ない」 少女の面を絶えず漣さざなみのように起こっては消える微笑を眺めながら堯はそう思った。彼女が鼻をかむようにして拭きとっているのは何か。灰を落としたストーヴのように、そんなとき彼女の顔・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ 然るに昨夕のこと富岡老人近頃病床にある由を聞いたから見舞に出かけた、もし機会が可かったら貴所の一条を持出す積りで。老人はなるほど床に就いていたが、意外なのは暫時く会ぬ中に全然元気が衰えたことである、元気が衰えたと云うよりか殆ど我が折れ・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・絶対安静の病床で一カ月も米杉の板を張った天井ばかりを眺めて暮した後、やっと起きて坐れるようになって、窓から小高い山の新芽がのびた松や団栗や、段々畑の唐黍の青い葉を見るとそれが恐しく美しく見える。雨にぬれた弁天島という島や、黒みかゝった海や、・・・ 黒島伝治 「海賊と遍路」
・・・と、病床日誌に死の原因を書きつけられていた。 五 今度は、山のような落盤の上に下敷きとなっている十四人を掘り出さなきゃならなかった。洞窟の奥の真暗な横坑にふさぎ込められていた土田は、山を這い渡る途中に、又、第二の落・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・私が五十日あまりの病床から身を起こして、発病以来初めての風呂を浴びに、鼠坂から森元町の湯屋まで静かに歩いた時、兄弟二人とも心配して私のからだを洗いについて来たくらいだ。私の顔色はまだ悪かった。私は小田原の海岸まで保養を思い立ったこともある。・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫