・・・従って私の冷静なるべき客観的紹介の態度は、往々にしてはなはだしく取り乱され、私の筆端は強い主観的のにおいを発散していることに気がつく。また一方私はルクレチウスをかりて自分の年来培養して来た科学観のあるものを読者に押し売りしつつあるのではない・・・ 寺田寅彦 「ルクレチウスと科学」
・・・其夜演奏が畢って劇場を出ると、堀端からはハーモニカや流行唄が聞え、日比谷の四辻まで来ると公園の共同便所から発散する悪臭が人の鼻を衝く。家に帰ると座敷の内には藪蚊がうなっていて、墻の外には夜廻の拍子木が聞えるのである。わたくしは芸術が其の発生・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・大鎌の奇怪なる角度より発散する三角形の光りの細胞は舞上り舞下りて闇黒の中に無形の譜を作りて死を讚美し祝し―― おどり狂う――大鎌をうちふりうちふりてなぎたおされんものをあさりつつ死は音もなく歩み・・・ 宮本百合子 「片すみにかがむ死の影」
・・・トルストイという極めて強烈な生命力を発散させて生涯を終った一つの人間性が周囲に投げた波紋や、それから後急激に移り進んだロシアの歴史の変遷、それに対する貴族としてのトルストイ家の人々の動きかた、あらゆる複雑な世紀と人生の波濤をそこに感じるから・・・ 宮本百合子 「ジャンの物語」
・・・一つでも、その半片でも、人間が受けている、或は受けなければならない苦難を知ると、その一点を中心として四囲に発散している種々の光彩を見、感じる事が出来るように成るのではあるまいか、私の魂が粗野で、先頃までは鈍かった感触が此頃漸々有るべき発育を・・・ 宮本百合子 「追慕」
・・・ ○ 紫や黄や朱の縞のある新しいネルの元禄袖を着ているみのえの体から、いい匂いが発散した。 油井は、剪りたての花でも見るようにみのえの坐り姿を見つめていたが、「どうしてそんなに奇麗?」と呟・・・ 宮本百合子 「未開な風景」
・・・或は「精力が伝染するように無気力も伝染するもので、この太古のままに生きている人々の魂から、彼の活動的精神を毒するなにか鈍い毒気のようなものが、機械についた錆のように発散されるのだ」そして、「少しずつ彼を吸いとって弱めてゆく微妙なあるもの」は・・・ 宮本百合子 「「揚子江」」
・・・花野菜、かぶ、きゅうりの山から発散する巨大な青くささに向って一つのガラス窓がひらいている。窓の内に赤い布で飾られたレーニンの写真がある。反帝国主義戦争のパンフレットが並べてある。粗末な古い木の床の左右は本棚である。トルストイ、トゥルゲニェフ・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・途中まで聞いていた誰やらの演説が、ただ雑音のように耳に聞えて、この島田に掛けた緋鹿子を見る視官と、この髪や肌から発散するを嗅ぐ嗅覚とに、暫くの間自分の心が全く奪われていたのである。この一刹那には大野も慥かに官能の奴隷であった。大野はその時の・・・ 森鴎外 「独身」
出典:青空文庫