・・・この十円札を保存するためには、――保吉は薄暗い二等客車の隅に発車の笛を待ちながら、今朝よりも一層痛切に六十何銭かのばら銭に交った一枚の十円札を考えつづけた。 今朝よりも一層痛切に、――しかし今朝よりも憂鬱にではない。今朝はただ金のないこ・・・ 芥川竜之介 「十円札」
或曇った冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待っていた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はいなかった。外を覗くと、うす暗いプラットフォオムにも、今日は珍しく・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・ 目をつむって、耳を圧えて、発車を待つのが、三分、五分、十分十五分――やや三十分過ぎて、やがて、駅員にその不通の通達を聞いた時は! 雪がそのままの待女郎になって、手を取って導くようで、まんじ巴の中空を渡る橋は、さながらに玉の桟橋かと・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・ 発車した。 ――お光は、夜の隙のあいてから、これを着て、嬉しがって戸外へ出たのである。……はじめは上段の間へ出向いて、「北国一。」 と、まだ寝ないで、そこに、羽二重の厚衾、枕を四つ、頭あわせに、身のうき事を問い、とわれ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・明日帰る時の用意に発車時間を見て置くのと、直江津なる友人へ急用の端書を出すためである。 キロキロと笛が鳴る。ピューと汽笛が応じて、車は闇中に動き出した。音ばかり長い響きを曳いて、汽車は長岡方面へ夜のそくえに馳せ走った。 予は此の停車・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ 奥深い旅宿の一室を借りて三人は次ぎの発車まで休息することにした。おはまは二人の前にひれふしてひたすらに詫びる。「わたしはこんなことをするつもりではなかったのであります、思わず識らずこんな不束なまねをして、まことに申しわけがありませ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 時計を見て、言った。発車は十時二十分である。「二分か。この二分の間に、俺は何か言わねばならない」 と、白崎はひそかに呟いた。「――しかし、何を言えばいいんだろう。いや、俺の言いたいことって一体何だろう」 そう呟きながら・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・ 私たちはまだこんな冗談など言い合ったりしていたが、やがて時間が来て青森を発車すると同時に、私たちの気持もだんだん引緊ってきた。一昨日は落合の火葬場の帰り、戸山ヶ原で私は打倒れそうになったが、今朝は気分もはっきりしていた。三つ目のN駅は・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・とも思っていたが、発車間ぎわになって、小僧は前になり巡査は後から剣をがちゃがちゃさせながら、階段を駈け下りてきた。そして耕吉の窓の下をも一二度、口鬚の巡査は剣と靴音とあわてた叫声を揚げながら、例の風呂敷包を肩にした、どう見ても年齢にしては発・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・閑な線で、発車するまでの間を、車掌がその辺の子供と巫山戯ていたり、ポールの向きを変えるのに子供達が引張らせてもらったりなどしている。事故などは少いでしょうと訊くと、いやこれで案外多いのです。往来を走っているのは割合い少いものですが、など車掌・・・ 梶井基次郎 「路上」
出典:青空文庫