・・・水に臨んだ紅葉の村、谷を埋めている白雲の群、それから遠近に側立った、屏風のような数峯の青、――たちまち私の眼の前には、大癡老人が造りだした、天地よりもさらに霊妙な小天地が浮び上ったのです。私は胸を躍らせながら、じっと壁上の画を眺めました。・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・垢じみた浴衣で、肌っこに白雲のある男の児をおぶった、おかみさんもあった。よごれた、薄いどてらに手ぬぐいの帯をしめた、目のただれた、おばあさんもあった。白いメリヤスのシャツと下ばきばかりの若い男もあった。大きなかぎ裂きのある印半纏に、三尺をぐ・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・劫初以来人の足跡つかぬ白雲落日の山、千古斧入らぬ蓊鬱の大森林、広漠としてロシアの田園を偲ばしむる大原野、魚族群って白く泡立つ無限の海、ああこの大陸的な未開の天地は、いかに雄心勃々たる天下の自由児を動かしたであろう。彼らは皆その住み慣れた祖先・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ それも道理、その老人は、年紀十八九の時分から一時、この世の中から行方が知れなくなって、今までの間、甲州の山続き白雲という峰に閉籠って、人足の絶えた処で、行い澄して、影も形もないものと自由自在に談が出来るようになった、実に希代な予言者だ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ただ畔のような街道端まで、福井の車夫は、笠を手にして見送りつつ、われさえ指す方を知らぬ状ながら、式ばかり日にやけた黒い手を挙げて、白雲の前途を指した。 秋のはじめの、空は晴れつつ、熱い雲のみ往来して、田に立つ人の影もない。稲も、畠も、夥・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・朝の天気はまんまるな天際の四方に白雲を静めて、洞のごとき蒼空はあたかも予ら四人を中心としてこの磯辺をおおうている。単純な景色といわば、九十九里の浜くらい単純な景色はなかろう。山も見えず川も見えずもちろん磯には石ころもない。ただただ大地を両断・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・ 見上げると、頭の上をおもしろそうに、白雲がゆるゆるとして流れてゆきました。 また、あるときは美しい小鳥たちが、おもしろそうに話をしながら飛んでゆきました。しかし、雲も小鳥たちも、下に立っている木を見つけませんでした。「小さくて・・・ 小川未明 「曠野」
・・・夏の日郊外の植木屋を訪ねて、高山植物を求め帰り道に、頭上高く飛ぶ白雲を見て、この草の生えていた岩石重畳たる峻嶺を想像して、無心の草と雲をなつかしく思い、童話の詩材としたこともありました。一生のうちには、山へもいつか上る機会があるように漠然と・・・ 小川未明 「春風遍し」
・・・……白雲院道屋外空居士か……なるほどね、やっぱしおやじらしい戒名をつけてくれたね」「そうですね。それにいかに商売でも、ああだしぬけに持ちこまれたんでは、坊さんも戒名には困ったでしょうよ。それでこういった漠然としたところをつけてくれたんじ・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・空は底を返したるごとく澄み渡りて、峰の白雲も行くにところなく、尾上に残る高嶺の雪はわけて鮮やかに、堆藍前にあり、凝黛後にあり、打ち靡きたる尾花野菊女郎花の間を行けば、石はようやく繁く松はいよいよ風情よく、えんようたる湖の影はたちまち目を迎え・・・ 川上眉山 「書記官」
出典:青空文庫