・・・ 行手の右側に神社の屋根が樹木の間に見え、左側には真暗な水面を燈火の動き走っているのが見え出したので、車掌の知らせを待たずして、白髯橋のたもとに来たことがわかる。橋快から広い新道路が東南に向って走っているのを見たが、乗合自動車はその方へ・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・彼はあまり背の高くない、肥り肉の白髯の多いビーフ・イーターであった。「あなたは日本人ではありませんか」と微笑しながら尋ねる。余は現今の英国人と話をしている気がしない。彼が三四百年の昔からちょっと顔を出したかまたは余が急に三四百年の古えを覗い・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ 俄かに澄み切った電鈴の音が式場一杯鳴りわたりました。 拍手が嵐のように起りました。 白髯赭顔のデビス長老が、質素な黒のガウンを着て、祭壇に立ったのです。そして何か云おうとしたようでしたが、あんまり嬉しかったと見えて、もうなんに・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・七十歳だった老人は白髯をしごきながら炉ばたで三人の息子と気むずかしく家事上の話をして、大きい音をたてて煙管をはたき、せきばらいしながら仏壇の前へ来ると、そこに畳んである肩衣をちょいとはおって、南無、南無、南無と仏壇をおがんだ。兄の嫁にあたる・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・お墓としてもこわい白髯の表情と結び合わされた。女学校の女先生が或る時小さいことで私に注意したとき、その祖父の名の下にやはり先生をつけて呼んで、そのお孫さんなのですからね、という意味の責任を負わすようなことを云われた。そのとき感じた重苦しい心・・・ 宮本百合子 「繻珍のズボン」
・・・幅のせまい、濃い緑、赤黄などで彩色した轎型の轅の間へ耳の立った驢馬をつけ、その轡をとって、風にさからい、背中を丸め、長着の裾を煽られながら白髯の老人がトボトボ進んで行く。――四辺の荒涼とした風景にふさわしい絵画的な印象であった。 やがて・・・ 宮本百合子 「石油の都バクーへ」
・・・の働き方、これは大人と違うから、つまり注意をどれだけ、何分間集中し得るかというようなことは、大人に育ってしまってからはよく分らないから、そこに教育部というものがあって、そこへ私が行った時に会ったのは、白髯の爺さんで、かれは何年も児童教育、児・・・ 宮本百合子 「ソヴェト・ロシアの素顔」
・・・この祖父の写真が一枚あったが、白髯で小柄なのに、子供の心にしたしめる表情は乏しかった。この向島からのかえりには浅草の仲店の絵草紙やで、一冊五銭ぐらいのお伽噺の本を買ってもらうのがきまりであった。大抵巖谷小波の本であった。祖父の蔵書は後でどこ・・・ 宮本百合子 「祖父の書斎」
・・・緑色の円い韃靼帽をかぶった辻待ち橇の馭者が、その人だかりを白髯のなかからながめている。 中央電信局の建築が、ほとんどできあがった。材料置場の小舎を雪がおおっている。トタンの番小屋のきのこ屋根も白くこおっている。 ――ダワイ! ダワイ・・・ 宮本百合子 「モスクワ印象記」
出典:青空文庫