出典:gooニュース
しかし天皇との間に皇子が産まれ、藤原兼家流は権力を…複雑すぎる『光る君へ』前後の天皇と藤原氏の関係を日本史学者が整理【2025編集部セレクション】
そして一条天皇が即位した時点で、冷泉天皇・円融天皇の皇子は居貞親王1人しかいなかった。 つまり正統な天皇として期待されていたのは東宮居貞親王だったのである。そのためここで、天皇より年上の皇太従兄、というねじれができてしまった。 そして一条天皇には、道長の娘、中宮彰子(あきこ)が産んだ敦成親王(後一条天皇)という皇子が産まれてしまった。
天皇の皇子にもかかわらず中級官人で終わった源寛、公家源氏としての「優遇措置」を自ら選ばなかった実直な人生
公家源氏は弘仁五年(八一四)五月の詔で皇子女八人(皇子が信・弘・常・明の四人、皇女が貞姫・潔姫・全姫・善姫の四人)に源朝臣の姓を賜った時点に始まるが、寛はまだ生まれたばかりで、この時の源氏賜姓には与らなかった。
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