・・・勝治は、相変らずランニングシャツにパンツという姿で、月夜ってのは、つまらねえものだ、夜明けだか、夕方だか、真夜中だか、わかりやしねえ、などと呟き、昔コイシイ銀座ノ柳イ、と呶鳴るようにして歌った。有原と節子は、黙ってついて歩いて行く。有原も、・・・ 太宰治 「花火」
・・・いちばん恐ろしかったのは奄美大島の中の無人の離れ島で台風に襲われたときであった。真夜中に荒波が岸をはい上がってテントの直前数メートルの所まで押し寄せたときは、もうひと波でさらわれるかと思った。そのときの印象がよほど強く深かったと見えて、それ・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・ 真夜中頃に、枕頭の違棚に据えてある、四角の紫檀製の枠に嵌め込まれた十八世紀の置時計が、チーンと銀椀を象牙の箸で打つような音を立てて鳴った。夢のうちにこの響を聞いて、はっと眼を醒ましたら、時計はとくに鳴りやんだが、頭のなかはまだ鳴ってい・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・それは同じ夜の真夜中であった。 鉄のボートで出来た門は閉っていた。それは然し押せばすぐ開いた。私は階段を昇った。扉へ手をかけた。そして引いた。が開かなかった。畜生! 慌てちゃった。こっちへ開いたら、俺は下の敷石へ突き落されちまうじゃない・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ だるい、ものうい、眠い、真夜中のうだるような暑さの中に、それと似てもつかない渦巻が起った。警官が、十数輛の列車に、一時に飛び込んで来た。 彼は全身に悪寒を覚えた。 恐愕の悪寒が、激怒の緊張に変った。匕首が彼の懐で蛇のように・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・そして原稿を盗み出し、真夜中に、もう二度とみる希望のないその家を去った。 二 エリカ・マンの「胡椒小屋」は四年間、オランダ、スイス、オーストリヤ、チェコ、ベルギー等を巡業し、いたるところで喝采をえた。小粒な・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・新シベリアの生産と文化の中軸だ。真夜中で〇・一五度では何とも仕方ない。車室の窓のブラインドをあげ、毛布にくるまってのぞいていたら次第に近づく市の電燈がチラチラ綺麗に見えた。 一寝いりして目がさめかけたらまだ列車は止っている。隣の車室へ誰・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・ 深夜の鏡にチラリとうつる自分の顔は、気味がわるくて、ちゃんと視たことがない。真夜中、おなかが空いて、茶の間へおりて来ると左手に丁度鏡があって、廊下からのぼんやりした光りで、その鈍く光る面をチラリと自分の横顔が掠める。それは自分の顔・・・ 宮本百合子 「顔を語る」
・・・き日よ泣きつかれうるむ乙女の瞳の如し はかなく光る樫の落葉よ蛇の目傘塗りし足駄の様もよし たゞ助六と云ふさへよければ助六の紅の襦袢はなつかしや 水色の衿かゝりてあれば真夜中の鏡の中に我見れば 暗きかげ・・・ 宮本百合子 「短歌習作」
・・・たとえ眠られぬ真夜中に、堅い腰掛けの上で痛む肩や背や腰を自分でどうにもできないはかなさのため、幽かな力ない嘆息が彼らの口から洩れるにしても。 私はこんな空想にふけりながら、ぼんやり乳飲み児を見おろしている母親の姿をながめ、甘えるらしく自・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫