・・・母は何が何んだか、わけが分らず、「あのね…………」と云い出すと、「畜生ッ! 入るか」と云って、そこにあったストーヴを掻き廻す鉄のデレッキを振りあげた。母は真青になって帰ってきた。 この冬は本当に寒かったの。留置場でもストーヴの側の監・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い、青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。ひっそりしている。ああ、こんな小説が書きたい。こんな作品がいいのだ。なんの作意も無・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・興津を過ぐる頃は雨となりたれば富士も三保も見えず、真青なる海に白浪風に騒ぎ漁る船の影も見えず、磯辺の砂雨にぬれてうるわしく、先手の隧道もまた画中のものなり。 此処小駅ながら近来海水浴場開けて都府の人士の避暑に来るが多ければ次第に繁昌する・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・セルロイドの窓から見える空は実に真青で美しかった。高い梢の枯枝が時々この美しい空に浮き出して見えた。車の中は暖かで、身体には何の苦痛もなかった、何のためにこうして送られて行くのかという気もした。自分が死骸になって送られていると想像してみた。・・・ 寺田寅彦 「病中記」
・・・あちらこちらに切り倒された大木の下から、真青な羊歯の鋸葉が覗いている。 むしろ平凡な画題で、作者もわからぬ。が、自分はこの絵を見る度に静かな田舎の空気が画面から流れ出て、森の香は薫り、鵯の叫びを聞くような気がする。その外にまだなんだか胸・・・ 寺田寅彦 「森の絵」
・・・ 般若の留さんというのは背中一面に般若の文身をしている若い大工の職人で、大タブサに結った髷の月代をいつでも真青に剃っている凄いような美男子であった。その頃にはまだ髷に結っている人も大分残ってはいたが、しかし大方は四十を越した老人ばかりな・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・日の加減か色が真青だ。……顔の周囲を巻いている髪の毛が、先っきから流れる水に漬けた様にざわざわと動いている。髪の毛ではない無数の蛇の舌が断間なく震動して五寸の円の輪を揺り廻るので、銀地に絹糸の様に細い炎が、見えたり隠れたり、隠れたり見えたり・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・それらの夢の景色の中では、すべての色彩が鮮やかな原色をして、海も、空も、硝子のように透明な真青だった。醒めての後にも、私はそのヴィジョンを記憶しており、しばしば現実の世界の中で、異様の錯覚を起したりした。 薬物によるこうした旅行は、だが・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・顔の色が真青だよ」「あの汽車はどこへ行くんでしょうね」「今の汽車かね。青森まで行かなきゃ、仙台で止るんだろう」「仙台。神戸にはいつごろ着くんでしょう」「神戸に。それは、新橋の汽車でなくッちゃア。まるで方角違いだ」「そう。・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・上を仰ぐ――真青な騒々しい動揺。横を窺う――条を乱し死者狂いのあばれよう。一体これは全くただの雨風であろうか? 自分というとりこめられた一つの生きものに向って、何か企み、喚めき、ざわめき立った竹類が、この竹藪を出ぬ間に、出ぬ間に! と犇めき・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
出典:青空文庫