・・・ かくしてエレーンは眼を眠る。眠りたる眼は開く期なし。父と兄とは唯々として遺言の如く、憐れなる少女の亡骸を舟に運ぶ。 古き江に漣さえ死して、風吹く事を知らぬ顔に平かである。舟は今緑り罩むる陰を離れて中流に漕ぎ出づる。櫂操るはただ一人・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ それからまた眠りに落ち、公園のベンチの上でそのまま永久に死んでしまった。丁度昔、彼が玄武門で戦争したり、夢の中で賭博をしたりした、憐れな、見すぼらしい日傭人の支那傭兵と同じように、そっくりの様子をして。・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・どこにでも横になってグッスリ眠りたくなった。「どれ、兎に角、帰ることにしようか、オイ、俺はもう帰るぜ」 私は、いつの間にか女の足下の方へ腰を、下していたことを忌々しく感じながら、立ち上った。「おめえたちゃ、皆、ここに一緒に棲んで・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・前夜の酒宴、深更に及びて、今朝の眠り、八時を過ぎ、床の内より子供を呼び起こして学校に行くを促すも、子供はその深切に感ずることなかるべし。妓楼酒店の帰りにいささかの土産を携えて子供を悦ばしめんとするも、子供はその至情に感ずるよりも、かえって土・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・かくてようように眠りがはっきりと覚めたので、十分に体の不安と苦痛とを感じて来た。今人を呼び起したのも勿論それだけの用はあったので、直ちにうちの者に不浄物を取除けさした。余は四、五日前より容態が急に変って、今までも殆ど動かす事の出来なかった両・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・そして睡りました。 *「カン君、カン君、もう雲見の時間だよ。おいおい。カン君。」カン蛙は眼をあけました。見るとブン蛙とベン蛙とがしきりに自分のからだをゆすぶっています。なるほど、東にはうすい黄金色の雲の峯が美し・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・ 弟が「どら猫」の眼の様だと笑った。 ほんとうに此頃は「どら猫」の生活をして居る。 眠りたいだけ眠り、気の向いた時食べ、そして何をするでもなくノソノソ家中歩き廻って居る。 それでもまあ、少しばかり読んだり書いたりする位が人間・・・ 宮本百合子 「秋毛」
・・・二時間眠りて、頭やや軽き心地す。次の汽車に乗ればさきに上野よりの車にて室を同うせし人々もここに乗りたり。中には百年も交りたるように親みあうも見えて、いとにがにがしき事に覚えぬ。若し方今のありさまにて、傾蓋の交はかかる所にて求むべしといわばわ・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・彼はこの夜、そのまま皇后ルイザにも逢わず、ひとり怒りながら眠りについた。 ナポレオンの寝室では、寒水石の寝台が、ペルシャの鹿を浮かべた緋緞帳に囲まれて彼の寝顔を捧げていた。夜は更けていった。広い宮殿の廻廊からは人影が消えてただ裸像の彫刻・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・……美しい手で確乎と椅子の腕を握り、じっとして思索に耽っている時のまじめな眠りを催すような静寂。体は横の方へ垂れ、頭は他方の手でささえて、眼は鈍い焔のように見える。「全身が考えている。」Whole Body thinks. そして思索のため・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫