・・・私は新聞かなにかを見ながら、ちらちらその方を眺めていたのであるが、アッと驚きの小さな声をあげた。彼女は、なんと! 猫の手で顔へ白粉を塗っているのである。私はゾッとした。しかし、なおよく見ていると、それは一種の化粧道具で、ただそれを猫と同じよ・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・そこで直ぐは帰らず山内の淋むしい所を撰ってぶらぶら歩るき、何時の間にか、丸山の上に出ましたから、ベンチに腰をかけて暫時く凝然と品川の沖の空を眺めていました。『もしかあの女は遠からず死ぬるのじゃアあるまいか』という一念が電のように僕の心中・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ つとめて書を読み、しかもそれが他人の生と労作からの所産であって、自分のそれは別になければならぬことを自覚し、他人の生にあずかり、その寄与をすなおに受けつつ、しかも自らの目をもって人生を眺め、事象を考察することのできるもの、これが理想的・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・珍しそうにそれを眺め入った。「うまくやる奴もあるもんだね。よくこんなに細かいところまで似せられたもんだ。」「すかしが一寸、はっきりしていないだろう。」貯金掛の字のうまい局員が云った。「さあ。」「それは紙の出どころが違うんだ。・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・と云いながら、雲は無いがなんとなく不透明な白みを持っている柔和な青い色の天を、じーっと眺め詰めた。お浪もこの夙く父母を失った不幸の児が酷い叔母に窘められる談を前々から聞いて知っている上に、しかも今のような話を聞いたのでいささか涙ぐんで茫・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・私はそのなごやかな監獄風景を眺めながら、たゞお湯の音だけをジャブ/\たてゝ、身体をこすっていた。ものみんなが静かな世界に、お湯のジャブ/\だけが音をたてゝいるのが、何かしら今だに印象に残っている。 次の日は「理髪」だった。――俺はこうし・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・庭の内も今は草木の盛な時で、柱に倚凭って眺めると、新緑の香に圧されるような心地がする。熱い空気に蒸される林檎の可憐らしい花、その周囲を飛ぶ蜜蜂の楽しい羽音、すべて、見るもの聞くものは回想のなかだちであったのである。其時自分は目を細くして幾度・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・老人は直ぐ前を行く二人の肘の間から、その前を行く一人一人の男等を丁寧に眺めている。その歩き付きを見る。その靴や着物の値ぶみをする。それをみな心配げな、真率な、忙しく右左へ動く目でするのである。顔は鋭い空気に晒されて、少なくも六十年を経ている・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・大きな眼を見開いて、いかにも何か知りたそうに、親達の顔を眺めます。けれども、彼等は只一言も恵んでは呉れませんでした。 斯様な事のある最中の或る午後、プラタプは、いつものように釣をしながら、笑ってスバーに云いました。「それじゃあ、ス、・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・まず、ざっと、こんなものだ、と言わぬばかりに、ナルシッサスは、再び、人さし指で気障な頬杖やらかして、満座をきょろと眺め渡した。「うん。だいたい、」長兄は、もったいぶって、「そんなところで、よろしかろう。けれども、――」長兄は、長兄として・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫