・・・な、家を忘れ、身を忘れ、生命を忘れて咲く怪しい花ほど、美しい眺望はない。分けて今度の花は、お一どのが蒔いた紅い玉から咲いたもの、吉野紙の霞で包んで、露をかためた硝子の器の中へ密と蔵ってもおこうものを。人間の黒い手は、これを見るが最後掴み散ら・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・――自動車は後眺望がよく利きませんな、むこうに山が一ツ浮いていましょう。淡島です。あの島々と、上の鷲頭山に包まれて、この海岸は、これから先、小海、重寺、口野などとなりますと、御覧の通り不穏な駿河湾が、山の根を奥へ奥へと深く入込んでおりますか・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・そこの高い石段を登って、有名なここの眺望にも対してみた。切立った崖の下からすぐ海峡を隔てて、青々とした向うの国を望んだ眺めはさすがに悪くはなかった。が、私はそれよりも、沖に碇泊した内国通いの郵船がけたたましい汽笛を鳴らして、淡い煙を残しなが・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・言っておいてこちらを振り向くでもなく、眼はやはり遠い眺望へ向けたままで、さもやれやれといったふうに石垣のはなのベンチへ腰をかけた。―― 町を外れてまだ二里ほどの間は平坦な緑。I湾の濃い藍が、それのかなたに拡がっている。裾のぼやけた、そし・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・散歩する者の本能である眺望がそこに打ち展けていたのである。 遠い山々からわけ出て来た二つの溪が私達の眼の下で落ち合っていた。溪にせまっている山々はもう傾いた陽の下で深い陰と日表にわかたれてしまっていた。日表にことさら明るんで見えるのは季・・・ 梶井基次郎 「闇の書」
・・・木立には遮られてはいるが先ほどの処よりはもう少し高い眺望があった。先ほどの処の地続きは平にならされてテニスコートになっている。軟球を打ち合っている人があった。――路らしい路ではなかったがやはり近道だった。「遠そうだね」「あそこに木が・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・燦爛かなる扮装と見事なる髭とは、帳場より亭主を飛び出さして、恭しき辞儀の下より最も眺望に富みたるこの離座敷に通されぬ。三十前後の顔はそれよりも更けたるが、鋭き眼の中に言われぬ愛敬のあるを、客擦れたる婢の一人は見つけ出して口々に友の弄りものと・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・前は青田、青田が尽きて塩浜、堤高くして海面こそ見えね、間近き沖には大島小島の趣も備わりて、まず眺望には乏しからぬ好地位を占むるがこの店繁盛の一理由なるべし。それに町の出口入り口なれば村の者にも町の者にも、旅の者にも一休息腰を下ろすに下ろしよ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・すべての眺望が高遠、壮大で、かつ優美である。 一同は寒気を防ぐために盛んに焼火をして猟師を待っているとしばらくしてなの字浦の方からたくましい猟犬が十頭ばかり現われてその後に引き続いて六人の猟師が異様な衣裳で登って来る、これこそほんとの山・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・とかく武蔵野を散歩するのは高い処高い処と撰びたくなるのはなんとかして広い眺望を求むるからで、それでその望みは容易に達せられない。見下ろすような眺望はけっしてできない。それは初めからあきらめたがいい。 もし君、何かの必要で道を尋ねたく思わ・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
出典:青空文庫