・・・前にはコケラ葺や、古い瓦屋根に草の茂った貸長屋が不規則に並んで、その向うには洗濯屋の物干が美しい日の眼界を遮ぎる。右の方に少しばかり空地があって、その真上に向ヶ岡の寄宿舎が聳えて見える。春の頃など夕日が本郷台に沈んで赤い空にこの高い建物が紫・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・ さて、このように縮小された各学者の眼界の領域はほとんど十人十色であって、それらのおのおのの領域はある部分では互いに重合して共通していても、残りの部分ではみんな少しずつちがっているわけである。しかもそれらの人々が独創的であり見識家である・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・しかし再び興奮の発作が来ると彼の頭は霊妙な光で満ち渡ると同時に、眼界をおおっていた灰色の霧が一度に晴れ渡って、万象が透き通って見えるのである。 このように週期的に交代する二つの世界のいずれがほんとうであるかを決定したいと思って迷っていた・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・それで一見いわゆるはなはだしく末梢的な知識の煩瑣な解説でも、その書き方とまたそれを読む人の読み方によっては、その末梢的問題を包含する科学の大部門の概観が読者の眼界の地平線上におぼろげにでもわき上がることは可能でありまたしばしば実現する事実で・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・おまけに万一にも眼界の狭い偏執的な学者でも出て来て、自分に興味のないような事項の観測の無用論を唱えたりするような場合には事柄はますます心細くなる。幸いに近年は農林省方面でも海洋観測の必要を痛切に認識して系統的な調査もようやくその緒に就いたよ・・・ 寺田寅彦 「新春偶語」
・・・毛布に手をかけた瞬間に眼界が急に真暗になってからだが左右にゆらぐを覚えた。何とも知らずしまったという気がした。次の瞬間には自分の席の背後の扉の前に倒れていた。どうしてここまで来たかは全く覚えていない。何とも云えぬ苦悶が全身を圧え付けて冷たい・・・ 寺田寅彦 「病中記」
・・・ある生まれつき盲目の人が生長後手術を受けて眼瞼を切開し、始めて浮き世の光を見た時に、眼界にある物象はすべて自分の目の表面に糊着したものとしか思えなかったそうである。こういう無経験な純粋な感覚のみにたよれば一間前にある一尺の棒と十間の距離にあ・・・ 寺田寅彦 「物理学と感覚」
・・・たださえ狭い眼界は度の強い望遠鏡でさらにせばめられる。これらの人のために、この大建築から離れた所に、小さな小亭が建てられている。ここへ来れば自分の住まっている建築が目ざわりにならずに、自由に四方が見渡される。しかるにせっかく建てたこの小亭が・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・そして試みにその眼鏡を借りて掛けて見ると、眼界が急に明るくなるようで何となく爽やかな心持がした。しばらくかけていて外すと、眼の前に蜘蛛の糸でもあるような気がして、思わず眼の上を指先でこすってみた。それから気が付いて考えてみると、近頃少し細か・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・遠くに見えた放水路の関門は忽ち眼界を去り、農家の低い屋根と高からぬ樹林の途絶えようとしてはまた続いて行くさまは、やがて海辺に近く一条の道路の走っていることを知らせている。畦道をその方に歩いて行く人影のいつか豆ほどに小さくなり、折々飛立つ白鷺・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫