・・・ああ云う大嗔恚を起すようでは、現世利益はともかくも、後生往生は覚束ないものじゃ。――が、その内に困まった事には、少将もいつか康頼と一しょに、神信心を始めたではないか? それも熊野とか王子とか、由緒のある神を拝むのではない。この島の火山には鎮・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・ おれは中有に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚に燃えなかったためしはない。妻は確かにこう云った、――「ではどこへでもつれて行って下さい。」 妻の罪はそれだけではない。それだけならばこの闇の中に、いまほどおれも苦しみはしまい。・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・中にも念仏信者の地頭東条景信は瞋恚肝に入り、終生とけない怨恨を結んだ。彼は師僧道善房にせまって、日蓮を清澄山から追放せしめた。 このときの消息はウォルムスにおけるルーテルの行動をわれわれに髣髴せしめる。「道善御房は師匠にておはし・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・正義と云い人道と云うは朝嵐に翻がえす旗にのみ染め出すべき文字で、繰り出す槍の穂先には瞋恚のほむらが焼け付いている。狼は如何にして鴉と戦うべき口実を得たか知らぬ。鴉は何を叫んで狼を誣ゆる積りか分らぬ。只時ならぬ血潮とまで見えて迸ばしりたる酒の・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫