・・・ しかし同僚を瞞着するよりも常子の疑惑を避けることは遥かに困難に富んでいたらしい。半三郎は彼の日記の中に絶えずこの困難を痛嘆している。「七月×日 俺の大敵は常子である。俺は文化生活の必要を楯に、たった一つの日本間をもとうとう西洋間に・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・世の人心を瞞着すること、これに若くものはない。何故か? 曰く、全快写真は殆んど八百長である。 いったい丹造がこの写真広告を思いついたのは、肺病薬販売策として患者の礼状を発表している某寺院の巧妙な宣伝手段に狙いをつけたことに始まり、これに・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・しかし季因是はまるで知らなかったのだから、廷珸の言に瞞着されて、大名物を得る悦びに五百金という高慢税を払って、大ニコニコでいた。 しかるに毘陵の趙再思という者が、偶然泰興を過ぎたので、知合であったから季因是の家をおとずれた。毘陵は即ち唐・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・どうしても完璧の瞞着が出来なかった。しっぽが出ていた。「僕はね、或る学生からサタンと言われたんです。」私は少しくつろいで事情を打ち明けた。「いまいましくて仕様が無いから、いろいろ研究しているのですが、いったい、悪魔だの、悪鬼だのというも・・・ 太宰治 「誰」
・・・完璧の瞞着の陣地も、今は破れかけた。死ぬ時が来た、と思った。私は三月中旬、ひとりで鎌倉へ行った。昭和十年である。私は鎌倉の山で縊死を企てた。 やはり鎌倉の、海に飛び込んで騒ぎを起してから、五年目の事である。私は泳げるので、海で死ぬのは、・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・のコーヒーをちびちびなめながら淡い郷愁を瞞着するのが常習になってしまった。 ベルリンの冬はそれほど寒いとは思わなかったが暗くて物うくて、そうして不思議な重苦しい眠けが濃い霧のように全市を封じ込めているように思われた。それが無意識な軽微の・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・漫に嫉妬なる文字を濫用して巧に之を説き、又しても例の婦人の嫉妬など唱えて以て世間を瞞着せんとするも、人生の権利は到底無視す可らざるものなり。 然るに男尊女卑の習慣は其由来久しく、習慣漸く人の性を成して、今日の婦人中動もすれば自から其権利・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・文明の学者士君子にして、腐儒の袖の下に隠れ儒説に保護せられて、由て以て文明社会を瞞着せんとする者と言う可し。其窮唯憐む可きのみ。或は此腐儒説の被保人等が窮余に説を作りて反対を試みんとすることもあらんか、甚だ妙なり。我輩は満天下の人を相手にし・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・風潮に乗じて、利を射り、名を貪り、犯すべからざるの不品行を犯し、忍ぶべからざるの刻薄を忍び、古代の縄墨をもって糺すときは、父子君臣、夫婦長幼の大倫も、あるいは明を失して危きが如くなるも、なおかつ一世を瞞着して得々横行すべきほどの、この有力な・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・文明の士人心匠巧みにして、自家の便利のためには、時に文林儒流の磊落を学び、軽躁浮薄、法外なる不品行を犯しながら、君子は細行を顧みずなど揚言して、以てその不品行を瞞着するの口実に用いんとする者なきにあらず。けだし支那流にいう磊落とはいかなる意・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
出典:青空文庫