・・・いまもって、知らん振りです。あの晩に、私が行って嫁にあれほど腹の底を打ち割った話をして、そうして、男一匹、手をついてお願いしたのにまあ、あの落ちつき払った顔。かえって馬小屋のマギで聞いていた圭吾のほうで、申しわけ無くなって、あなた、馬小屋の・・・ 太宰治 「嘘」
・・・言うのが、つらくて、いっそ知らん振りしていようかとさえ思ったのだが、いまビイルの酔いを借りて、とうとう言い出したわけだ。いや、考えてみると、君が僕に言わせるようにしむけてくれたのかも知れないね。ビイルを見つけてくれたのは、君なんだから。」・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・今夜これから誰か女のひとのところへ遊びに行き、知らん振りして帰って来る。そうして、来年の七夕にまたふらりと遊びに行き、やっぱり知らん振りして帰って来る。そうして、五、六年もそれを続けて、それからはじめて女に打ち明ける。毎年、僕の来る夜は、ど・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・高邁な瞑想だなんて、とんでもない奴さ。知らん振りしてやりましょう。どれ、こう葉を畳んで、眠った振りをしていましょう、いまは、たった二枚しか葉が無いけれども、五年経ったら美しい花が咲くのよ。」 にんじん。「どうにも、こうにも、・・・ 太宰治 「失敗園」
・・・あなただけ優しくて、私ひとりが鬼婆みたいに見られるの、いやだから、私、知らん振りしていたの。」「お金が、惜しいんだ、四円とは、ひどいじゃないか。煮え湯を呑ませられたようなものだ。詐欺だ。僕は、へどが出そうな気持だ。」「いいじゃないの・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・私の部屋の窓から、その隣りの宿の、娘さんの部屋が見えて、お互い朝夕、顔を見合せていたのであるが、どっちも挨拶したことは無し、知らん振りであった。当時、私は朝から晩まで、借銭申し込みの手紙ばかり書いていた。いまだって、私はちっとも正直では無い・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・おれはもう、お前の顔を二度とふたたび見たくなかったので知らん振りをしていたが、あさは再三お前に、島田の留守中はこっちにいるようにと手紙を出した様子だった。それなのに、お前はひどく威張り返って、洋裁の仕事がいそがしくてとても田舎へなんか行かれ・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・けれども又三郎は知らん振りをして、だまって嘉助の脈を見てそれから云いました。「なるほどね、お前ならことによったら足を切られるかも知れない。この子はね、大へんからだの皮が薄いんだよ。それに無暗に心臓が強いんだ。腕を少し吸っても血が出るくら・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
私は絶えず本を読まなければならないと云う心持がして居る。 一日の中一度も何の本も読まないで過ぎると、何だか当然取り入れなければならないものがすぐ手近かにあったのに、知らん振りをして見ない顔をして通った様な不安が起って来・・・ 宮本百合子 「無題(四)」
・・・其を若し彼の人達が見たら如何那心持がするでしょう、僕は知らん振りをしては居られません。此処にはいない、私共の仲間の代りに私共が皆さんにお願いします。どうか貴方が一杯余分な如何でもいい、珈琲を召上る時には、一日中何も食べる物のない、泥水のたま・・・ 宮本百合子 「私の見た米国の少年」
出典:青空文庫