・・・「この蝋燭は短いね。もうすぐ、なくなるよ。もっと長い蝋燭が無いのかね。」「それだけですの。」 私は黙した。天に祈りたい気持であった。あの蝋燭が尽きないうちに私が眠るか、またはコップ一ぱいの酔いが覚めてしまうか、どちらかでないと、・・・ 太宰治 「朝」
・・・凡て盛りの短い生物には、生活に対する飢渇があるものだが、それをドリスは強く感じている。それが優しい、褐色の、余り大きいとさえ云いたいような、余りきらきらする潤いが有り過ぎるような目の中から耀いて見える。 無邪気な事は小児のようである。軽・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ こういう飛びぬけた頭脳を持っていて、そして比較的短い年月の間にこれだけの仕事を仕遂げるだけの活力を持っている人間の、「人」としての生立ちや、日常生活や、環境は多くの人の知りたいと思うところであろう。 それで私は有り合せの手近な材料・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・鼻の下にすくすく生えた短い胡麻塩髭や、泡のたまった口が汚らしく見えた。「忰は水練じゃ、褒状を貰ってましたからね。何でも三月からなくちゃ卒業の出来ねえところを、宅の忰はたった二週間で立派にやっちまった。それで免状をもらって、連隊へ帰って来・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ この年月の経験で、鐘の声が最もわたくしを喜ばすのは、二、三日荒れに荒れた木枯しが、短い冬の日のあわただしく暮れると共に、ぱったり吹きやんで、寒い夜が一層寒く、一層静になったように思われる時、つけたばかりの燈火の下に、独り夕餉の箸を取上・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・春といっても横にひろがった薺が、枝を束ねた桑畑の畝間にすっと延び出して僅かに白い花が見え出してまだ麦が首を擡げない頃は其短い麦の間に小さな体にしては恐ろしげな毛を頭に立てた雲雀がちょろちょろと駈け歩いて居る。赤は雲雀を見つけるとすぐ其後に土・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・自動車の御者になってお客を乗せれば――もっとも自動車をもつくらいならお客を乗せる必要もないが――短い時間で長い所が走れる。糞力はちっとも出さないですむ。活力節約の結果楽に仕事ができる。されば自動車のない昔はいざ知らず、いやしくも発明される以・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・この男の物を書く態度はいかにも規則正しく、短い間を置いてはまた書く。その間には人指し指を器械的に脣の辺まで挙げてまた卸す。しかし目は始終紙を見詰めている。 この男がどんな人物だと云うことは、一目見れば知れる。態度はいかにも威厳があって、・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・これは今まででもこうであったのであろうが今日始めて見たような心持がしてこの短い帆が甚だおかしくてたまらぬ。けれどもこれが橋の下を通る舟の特色であると思うとそのおかしい処に感じの善い処がある。 橋を渡った。もうくたびれてしもうて観察するの・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・嘉助は夢中で短い笑い声をあげて、その道をぐんぐん歩きました。 けれども、たよりのないことは、みちのはばが五寸ぐらいになったり、また三尺ぐらいに変わったり、おまけになんだかぐるっと回っているように思われました。そして、とうとう大きなてっぺ・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
出典:青空文庫