・・・それでも一升買ってきた石油はすぐなくなった。夜なべ最中に、よくランプがジジジジと音たて、やがて消えて行った。「えゝいくそ! 消えやがった。」おしかはランプにまで腹立てゝいるようにそう云った。「もう石油はないんか!」「あるもんら!・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・部屋一ぱいに、れいのかつぎの商売道具らしい石油かんやら、りんご箱やら、一升ビンやら、何だか風呂敷に包んだものやら、鳥かごのようなものやら、紙くずやら、ほとんど足の踏み場も無いくらいに、ぬらついて散らばっている。「なんだ、あなたか。なぜ、・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・五厘だけ安いというので石油の缶を自転車にぶらさげ、下谷の方まで買いに出かけるという事であった。八百屋などが来ると自分で台所へ出かけてやかましく値切り小切りをする。大根を歯で喰い欠いてみてこれはいけないと云って突返したりする。煮焚きの事でも細・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・ほぼこれと同大のガラス板に墨と赤および緑のインキでいいかげんな絵を描いたのをこの小さなスクリーンの直接の背後へくっつけて立てて、その後ろに石油ランプを置くだけである。もっともそのスクリーンの周囲の同平面をふろしきやボール紙でともかくもふさい・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・そうして黒光りのする台所の板間で、薄暗い石油ランプの燈下で一つ一つ皮を剥いでいる。そういう光景が一つの古い煤けた油画の画面のような形をとって四十余年後の記憶の中に浮上がって来るのである。自分の五歳の頃から五年ほどの間熊本鎮台に赴任したきり一・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
・・・風のあるときは石油ランプはかえって消えやすくていけないそうである。 なんの気なしにもらって飲んだお茶の水は天気のいい時は峰の茶屋からここまでかつぎ上げなければならぬ貴重なものである。雨のときはテントの屋根から集めるという。 晴夜が三・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・また床上に流した石油に点火するときその炎の前面が花形に進行する現象からもまた、放射形柱状渦の存在を推定したことがあった。それの類推的想像と、もう一つは完全流体の速度の場と静電気的な力の場との類似から、例の不謹慎な空想をたくましくして、もしも・・・ 寺田寅彦 「自然界の縞模様」
・・・自分がそもそも最初に深川の方面へ出掛けて行ったのもやはりこの汐留の石橋の下から出発する小な石油の蒸汽船に乗ったのであるが、それすら今では既に既に消滅してしまった時代の逸話となった。 銀座と銀座の界隈とはこれから先も一日一日と変って行くで・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・、人力車は賃銭の高いばかりか何年間とも知れず永代橋の橋普請で、近所の往来は竹矢来で狭められ、小石や砂利で車の通れぬほど荒らされていた処から、誰れも彼れも、皆汐溜から出て三十間堀の堀割を通って来る小さな石油の蒸汽船、もしくは、南八丁堀の河岸縁・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・これは丸形の石造で石油タンクの状をなしてあたかも巨人の門柱のごとく左右に屹立している。その中間を連ねている建物の下を潜って向へ抜ける。中塔とはこの事である。少し行くと左手に鐘塔が峙つ。真鉄の盾、黒鉄の甲が野を蔽う秋の陽炎のごとく見えて敵遠く・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
出典:青空文庫