・・・非人は石見産だと云っていた。人に怪まれるのは脇差を持っていたからであった。しかし敵ではなかった。 九郎右衛門の足はまだなかなか直らぬので、宇平は二月二日に文吉を連れて姫路を立って、五日に大阪に着いた。宿は阿波座おくひ町の摂津国屋である。・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ 翌年は明和五年で伊織の弟宮重はまだ七五郎と云っていたが、主家のその時の当主松平石見守乗穏が大番頭になったので、自分も同時に大番組に入った。これで伊織、七五郎の兄弟は同じ勤をすることになったのである。 この大番と云う役には、京都二条・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・君は私とは同じ石見人であるが、私は津和野に生れたから亀井家領内の人、君は所謂天領の人である。早くからドイツ語を専修しようと思い立って、東京へ出た。所々の学校に籍を置き、種々の教師に贄を執って見たが、今の立場から言えば、どの学校も、どの教師も・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・多胡辰敬は尼子氏の部将で、石見の刺賀岩山城を守っていた人であるが、その祖先の多胡重俊は、将軍義満に仕え、日本一のばくち打ちという評判を取った人であった。後三代、ばくちの名人が続いたが、辰敬の祖父はばくちをやめ、応仁の乱の際に京都で武名をあげ・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫