・・・髪の薄い天窓を真俯向けにして、土瓶やら、茶碗やら、解かけた風呂敷包、混雑に職員のが散ばったが、その控えた前だけ整然として、硯箱を右手へ引附け、一冊覚書らしいのを熟と視めていたのが、抜上った額の広い、鼻のすっと隆い、髯の無い、頤の細い、眉のく・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 信仰に頒布する、当山、本尊のお札を捧げた三宝を傍に、硯箱を控えて、硯の朱の方に筆を染めつつ、お米は提灯に瞳を凝らして、眉を描くように染めている。「――きっと思いついた、初路さんの糸塚に手向けて帰ろう。赤蜻蛉――尾を銜えたのを是・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 私は無言で首肯いてベンチから立ち上り、郵便局備附けの硯箱のほうへ行く。貯金通帳と、払戻し用紙それから、ハンコと、三つを示され、そうして、「書いてくれや」と言われたら、あとは何も聞かずともわかる。「いくら?」「四拾円。」 私・・・ 太宰治 「親という二字」
・・・にいたるこの数行の文章は、日本紙に一字一字、ていねいに毛筆でもって書きしたためられ、かれの書斎の硯箱のしたに隠されていたものである。案ずるに、かれはこの数行の文章をかれ自身の履歴書の下書として書きはじめ、一、二行を書いているうちに、はや、か・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・その日の事は、いまでもはっきり覚えておりますが、野分のひどく吹き荒れている日でございまして、私たちはそのお綺麗な奥さんからお習字をならっていまして、奥さんが私の傍をとおった時に、どうしたはずみか、私の硯箱がひっくりかえり、奥さんの袖に墨汁が・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・机の上には二、三の雑誌、硯箱は能代塗りの黄いろい木地の木目が出ているもの、そしてそこに社の原稿紙らしい紙が春風に吹かれている。 この主人公は名を杉田古城といって言うまでもなく文学者。若いころには、相応に名も出て、二、三の作品はずいぶん喝・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・蓋を開けた硯箱の傍には、端を引き裂いた半切が転がり、手箪笥の抽匣を二段斜めに重ねて、唐紙の隅のところへ押しつけてある。 お熊が何か言おうとした矢先、階下でお熊を呼ぶ声が聞えた。お熊は返辞をして立とうとして、またちょいと蹲踞んだ。「ね・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・で一かどの者になれる望がこの事で根からひっくり返って仕舞わないかと云う不安に、川窪でいずれそうなったら運動もしてくれるだろうが、今度の礼と一緒に念のためにたのんで置けと、まだ着物も着換えない栄蔵の前に硯箱を持ち出したりした。 兄を兄とも・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 桃龍は知らん顔で卓の上の硯箱をあけ、いたずら描きを始めた。「――近くで見たら、その顔、まあ化物やな」「いやらしおっしゃろほんまに、踊のある間、あてら顔滅茶苦茶やわ……痛い痛いわ、荒れて」「……何や、それ」「ワセリン」・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・ 自分は、立ったままテーブルの上にあった硯箱を引きよせ、墨をすりおろして筆先をほごしながら、「御覧なさい、あなたがたのデマの効果がもうあらわれた」と云い、短く返事を書いた。それを読みかえしていると、後から一人の男がスとよって来る・・・ 宮本百合子 「刻々」
出典:青空文庫