・・・諸君がとんぼとりにつかうもちは、その芋をつぶすときに出来るおねばのことであるが、さてそのこんにゃく屋さんは、はたらき者の爺さんと婆さんが二人きりで、いつも爺さんが、「ホイ、きたか――」 と云って私にニコニコしてくれた。「きょうは・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・夕方、父親につづいて、淀井と云う爺さんがやって来た。それは殆ど毎日のよう、父には晩酌囲碁のお相手、私には其頃出来た鉄道馬車の絵なぞをかき、母には又、海老蔵や田之助の話をして、夜も更渡るまでの長尻に下女を泣かした父が役所の下役、内證で金貸をも・・・ 永井荷風 「狐」
・・・眼の細い、身丈の低くからぬ、丈夫そうな爺さんであった。浅草という土地がら、大道具という職業がらには似もつかず、物事が手荒でなく、口のききようも至極穏かであったので、舞台の仕事がすんで、黒い仕事着を渋い好みの着物に着かえ、夏は鼠色の半コート、・・・ 永井荷風 「草紅葉」
公園の片隅に通りがかりの人を相手に演説をしている者がある。向うから来た釜形の尖った帽子を被ずいて古ぼけた外套を猫背に着た爺さんがそこへ歩みを佇めて演説者を見る。演説者はぴたりと演説をやめてつかつかとこの村夫子のたたずめる前・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・台所から首を出した爺さんも坊主頭である。主人は哲学者である。居士は洪川和尚の会下である。そうして家は森の中にある。後は竹藪である。顫えながら飛び込んだ客は寒がりである。 子規と来て、ぜんざいと京都を同じものと思ったのはもう十五六年の昔に・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・例の爺さんは今しも削りあげた木を老眼にあてて覚束ない見ようをして居る。 やっちゃ場の跡が広い町になったのは見るたびに嬉しい。 坂本へ出るとここも道幅が広がりかかって居る。 二号の踏切まで行かずに左へ曲ると左側に古綿などちらかして・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・子供らはかわるがわる厩の前から顔を出して「爺さん、早ぐお出や」と言って笑った。小十郎はまっ青なつるつるした空を見あげてそれから孫たちの方を向いて「行って来るじゃぃ」と言った。 小十郎はまっ白な堅雪の上を白沢の方へのぼって行った。 犬・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
・・・足のまがった片眼のその爺さんは上着のポケットに手を入れたまま、また高くわらいました。「数えてるさ、そんなら、じいさんは知ってるかい。いまでもポラーノの広場はあるかい。」ファゼーロが訊きました。「あるさ。あるにはあるけれどもお前らのた・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・今日は主の爺さんがいた。「勝手に始末しても悪かろうと思って――私が持って行って上げましょう」 縞の着物を着、小柄で、顔など女のように肉のついた爺は、夜具包みや、本、食品などつめた木箱を、六畳の方へ運び入れてくれた。夫婦揃ったところを・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・女中達はお爺いさんを、蔭で助兵衛爺さんと呼んでいた。これはお爺いさんが為めにする所あって布団をまくるのだと思って附けた渾名である。そしてそれが全くの寃罪でもなかったらしい。 暮に押し詰まって、毎晩のように忘年会の大一座があって、女中達は・・・ 森鴎外 「心中」
出典:青空文庫