・・・ 庭で鳴く小鳥の声までも、大塚さんの耳には、復た回って来た春を私語いた。あらゆる記憶が若草のように蘇生る時だ。楽しい身体の熱は、妙に別れた妻を恋しく思わせた。 夕飯の頃には、針仕事に通って来ている婦も帰って行った。書生は電話口でしき・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・中には男に孅弱な手を預け、横から私語かせ、軽く笑いながら樹蔭を行くものもあった。妻とすら一緒に歩いたことのない原は、時々立留っては眺め入った。「これが首を延して翹望れていた、新しい時代というものであろうか」こう原は自分で自分に尋ねて見たので・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・暮れて行く空や水や、ありやなしやの小島の影や、山や蜜柑畑や、森や家々や、目に見るものがことごとく、藤さんの白帆が私語く言葉を取り取りに自分に伝えているような気がする。 と、ふと思わぬところにもう一つ白帆がある。かなたの山の曲り角に、靄に・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・私は、ひとの女と私語を交えたことはない。私は友の陰口を言ったことさえない。昨夜、床の中で、じっとして居ると、四方の壁から、ひそひそ話声がもれて来る。ことごとく、私に就いての悪口である。ときたま、私の親友の声をさえ聞くのである。私を傷つけなけ・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ 家来たちの不用心な私語である。 それを聞いてから、殿様の行状は一変した。真実を見たくて、狂った。家来たちに真剣勝負を挑んだ。けれども家来たちは、真剣勝負に於いてさえも、本気に戦ってくれなかった。あっけなく殿様が勝って、家来たちは死・・・ 太宰治 「水仙」
・・・ 山上の私語。「おもしろく読みました。あと、あと、責任もてる?」「はい。打倒のために書いたのでございませぬ。ごぞんじでしょうか。憤怒こそ愛の極点。」「いかって、とくした人ないと古老のことばにもある。じたばた十年、二十年あ・・・ 太宰治 「創生記」
・・・ 紳士たちの私語が、ひそひそ室内に充満した。「まあ、いい。これからすぐ警視庁へ来てもらう。歩けないことは、あるまい。」 自動車に乗せられ、窓からちまたを眺めると、人は、寒そうに肩をすくめて、いそがしそうに歩いていた。ああ、生きて・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・それ等の声に耳を傾け私も亦 人に洩れぬ 私語で 物語り見えぬ友情絶ち難い 愛が 二人の胸を繋ぐ。私は、此一生をお前の 愛に捧げよう、我生をその愛に献じ魂をこめて生命を伝えたら生存が お前の奥に埋もれ切・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・戦争はいやですわねえ、といいつつ、そのいやなものが強制されればやむを得ないと、屈伏する前提ででもあるかのように、ひそひそと私語がかわされていた。したがって、社会の心理に及ぼす効果をしらべると、戦争なんて、いやですわねえ、とあっちできこえこち・・・ 宮本百合子 「今年のことば」
・・・同時に、友達同士で来ている人たちの私語がかなりやかましいようなときもあった。男の人々と交って一般閲覧室にいる女のひとたちで、気になるような話をしているものはない。度々同じ閲覧室で出会い、ときには必要な本の索引のひきかたをきき合ったりすること・・・ 宮本百合子 「図書館」
出典:青空文庫