・・・おめえ稼業にも似合わねえ。ばかめ、こんな爺さんを掴めえて、剣突もすさまじいや、なんだと思っていやがんでえ、こう指一本でも指してみろ、今じゃおいらが後見だ」 憤慨と、軽侮と、怨恨とを満たしたる、視線の赴くところ、麹町一番町英国公使館の土塀・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・まさか、とは考えるが、さて人の稼業である。此方から推着けに、あれそれとも極められないから、とにかく、不承々々に、そうか、と一帆の頷いたのは、しかし観世音の廻廊の欄干に、立並んだ時ではない。御堂の裏、田圃の大金の、とある数寄屋造りがちょっと隠・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・ この結論に達するまでの理路は極めて井然としていたが、ツマリ泥水稼業のものが素人よりは勝っているというが結論であるから、女の看方について根本の立場を異にする私には一々承服する事が出来なかった。が、議論はともあれ、初めは微酔気味であったの・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・文子はそのころもう宗右衛門町の芸者で、そんな稼業とそして踊りに浮かれた気分が、幼な馴染みの私に声を掛けさせたといえましょうが、しかし、私は嬉しかった。と同時に、十年前会った丁稚姿、そして今夜は夜店出し、あたりの賑いにくらべていかにもしょんぼ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・蝶子は一層ヤトナ稼業に身を入れた。彼女だけには特別の祝儀を張り込まねばならぬと宴会の幹事が思うくらいであった。祝儀はしかし、朋輩と山分けだから、随分と引き合わぬ勘定だが、それだけに朋輩の気受けはよかった。蝶子はん蝶子はんと奉られるので良い気・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・そのためにレディとの交際が出来難く、触れ合う女性は喫茶ガールや、ダンサーや、すべて水稼業に近い雰囲気のものになるということは嘆くべきことだ。もっと男女選択のチャンスの広くなるような、美しい賢明な男女交際の機関をこしらえてやることは社会的義務・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ふと、蜂谷は思いついたように、「小山さん、医者稼業というやつはとかく忙しいばかりでして、思うようにも届きません。昨日から私も若いものを一人入れましたで。ええここの手伝いに。何かまた御用がありましたら、言付けてやって下さい」 こう言っ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・今日もこの歯が一本ぐらぐらになってね、棕櫚縄を咬えるもんだから、稼業だから為方がないようなもんだけれど……。」 爺さんは植木屋の頭に使われて、其処此処の庭の手入れをしたり垣根を結えたりするのが仕事なのだ。それでも家には小金の貯えも少しは・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ここの家なんか、こんな稼業をしているけれど、めいめい自分の生活については、相当苦しんでもいるんだからね」「それあそうや」姉は頷いていた。 それから別れる場合の、話しのつけ方と、交渉にあたる人とを、道太は指名した。「どうも僕じゃ少・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ あがりがまちのむこうには、荷馬車稼業の父親が、この春仕事さきで大怪我をしてからというもの、ねたきりでいたし、そばにはまだ乳のみ児の妹がねかしてあった。母親にすれば、倅の室の隅においている小さい本箱と、ちかごろときどき東京からくる手紙が・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫