・・・ 私は食物には割合に無頓着であって、何処でも腹が空けばその近所の飲食店で間に合わして置く方であるが、二葉亭はなかなか爾う行かなかった。いつでも散歩すると意見の衝突を来すは必ず食事であって、その度毎に「食物では話せない」といった。電車の便・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・この急須を空けっちまっての、新しく茶を入れて来な」「はい」と女中はようよう膝を折って、遠くから片手を伸ばして茶盆ぐるみ引き寄せながら、「ついでにお茶椀も洗って来ましょうね」「姐さん、あの、便所はどちらですの?」「便所ですか?・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・此所はお前の為に空けて置く!」 いかがです。学生本来の姿とは、即ち此の神の寵児、此の詩人の姿に違いないのであります。地上の営みに於ては、何の誇るところが無くっても、其の自由な高貴の憧れによって時々は神と共にさえ住めるのです。 此の特・・・ 太宰治 「心の王者」
・・・編輯者は、私のこんな下手な作品に対しても、わざわざペエジを空けて置いて、今か今かと、その到来を待ってくれているのである。私はそれを知っているので、いかに愚劣な作品と雖も、みだりにそれを破棄することが出来ない。義務の遂行と言えば、聞えもいいが・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・そして桝から舟へセメントを空けると又すぐその樽を空けにかかった。「だが待てよ。セメント樽から箱が出るって法はねえぞ」 彼は小箱を拾って、腹かけの丼の中へ投り込んだ。箱は軽かった。「軽い処を見ると、金も入っていねえようだな」 ・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・ ――本当にここは空けとかなけりゃならないんだ。 ――おい。 背広上衣の下へルバーシカを着た一人が仲間をうながした。 ――立てよ。 若い男二人は立ってしまったが、日本女のすぐ前へ腰をかけた女はそのままベンチのよりかかりに・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
・・・ それを、談笑のうちにしまい、後の洗物や何かは良人も手伝って、七時半頃までには、外出するとも勉強するとも、眠るまでの時を、さっぱり空けて置くことが出来ます。 R氏の家は、丁度市街に沿うてある細長いモーニングサイド公園に近いので、夕食・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・腹が空けば一日十銭では不足である。そこで、彼は蒼ざめた顔をして保護色を求める虫のように、一日丘の青草の中へ坐っていた。日が暮れかかると彼は丘を降りて街の中へ這入って行った。時には彼は工廠の門から疲労の風のように雪崩れて来る青黒い職工達の群れ・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫