・・・彼等の才能の不足もさることながら、虚構の群像が描き出すロマンを人間の可能性の場としようという近代小説への手の努力も、兎や虫を観察する眼にくらべれば、ついに空しい努力だと思わねばならなかったところに、日本の芸術観の狭さがあり、近代の否定があっ・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・しぜん人も馬も重苦しい気持に沈んでしまいそうだったが、しかしふと通り魔が過ぎ去った跡のような虚しい慌しさにせき立てられるのは、こんな日は競走が荒れて大穴が出るからだろうか。晩秋の黄昏がはや忍び寄ったような翳の中を焦躁の色を帯びた殺気がふと行・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・その事件を中心に昭和十年頃の千日前の風物誌を描こうという試みをふと空しいものに思う気持が筆を渋らせていたのだ。千日前のそんな事件をわざわざ取り上げて書いてみようとする物好きな作家は、今の所私のほかには無さそうだし、そんなものでも書いて置けば・・・ 織田作之助 「世相」
・・・作家はみな苦労し、努力し、工夫し、真剣に書いているのだが、ふと東西古今の大傑作のことを考えると、苦労も努力も工夫もみな空しいもののような気がしてならない。しかし、それでも書きつづけて行けば、いつかは神に通ずる文学が書けるのだろうか、今は、せ・・・ 織田作之助 「文学的饒舌」
・・・も駄目だ、この病的な生活を洗い浄めて練歯磨の匂いのように新鮮なすがすがしい健康な生活をしなければならぬと、さまざまに思い描き乾いた雑巾を絞るような努力もしてみるのだが、その夜の道がそうした努力をすべて空しいものにしてしまうのである。なにもか・・・ 織田作之助 「道」
・・・で、種々な空想に失望したり、落胆したりして、それから空しい功名心も破れて――北村君自身の言葉で言えば「功名心の梯子から落ちて」――そうして急激な勢で文学の方へ出て来るようになったのである。北村君は石坂昌孝氏の娘に方る、みな子さんを娶って、二・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・太郎は三日も四日も空しい努力をして五日目にあきらめた。このような古風な顔では、どうせ女には好かれまいが、けれども世の中には物好きが居らぬものでもあるまい。仙術の法力を失った太郎は、しもぶくれの顔に口鬚をたらりと生やしたままで蔵から出て来た。・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・山は次第に深くなり、小径は荊棘の中に消えてしまった。空しい時間が経過して行き、一人の樵夫にも逢わなかった。私はだんだん不安になり、犬のように焦燥しながら、道を嗅ぎ出そうとして歩き廻った。そして最後に、漸く人馬の足跡のはっきりついた、一つの細・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 家の行末を思い、二人の不幸な子の身を思い、空しい廃人となって只、微かな生を保って居る自分を想いして、あるにもあられぬ思いがした。 運命の命ずるままに引きずられて、しかも益々苦痛な、益々暗澹たる生活をさせられる我身を、我と我手で鱠切・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
夕暮仕事につかれ「赤と黒」とを手にもって縁側に腰かけているきょうも 空しいままに暮れたわがよろこびの小径を眺めながら。松の木と木の間をぬけて草道はうねりあっちの林へ消えているその道の果・・・ 宮本百合子 「よろこびはその道から」
出典:青空文庫