・・・頭はまるで空虚であった。ただ、寒さだけを覚えた。 彼は燐寸の箱を袂から取り出そうとした。腕組みしている手をそのまま、右の手を左の袂へ、左の手を右の袂へ突込んだ。燐寸はあった。手では掴んでいた。しかしどちらの手で掴んでいるのか、そしてそれ・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・とお源は空虚の炭籠を見せて「炭だってこれだろう。今夜お米を買ったら幾干も残りや仕ない。……」 磯は黙って煙草をふかしていたが、煙管をポンと強く打いて、膳を引寄せ手盛で飯を食い初めた。ただ白湯を打かけてザクザク流し込むのだが、それが如何に・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・は自らの空虚を充すために価値に向かい、これを実現することによって、自らを充実する。これがわれわれの意志行為である。ライプニッツが同一の木の葉は一枚もないといったように、個性的なものはそれぞれ独自なもので、他に類例を許さない。自然科学では法則・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・看護長は、帳簿を拡げ、一人一人名前を区切って呼びだした。空虚な返事がつづいた。「ハイ。」「は。」「は。」 呼ばれた顔は一ツ一ツ急にさッと蒼白になった。そして顔の筋肉が痙攣を起した。「ハイ。」 栗本はドキリとした。と、・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・山間僻地のここらにしてもちと酷過ぎる鍵裂だらけの古布子の、しかもお坊さんご成人と云いたいように裾短で裄短で汚れ腐ったのを素肌に着て、何だか正体の知れぬ丸木の、杖には長く天秤棒には短いのへ、五合樽の空虚と見えるのを、樹の皮を縄代りにして縛しつ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・わが心は依然として空虚な廃屋のようで、一時凌ぎの手入れに、床の抜けたのや屋根の漏るのを防いでいる。継ぎはぎの一時凌ぎ、これが正しく私の実行生活の現状である。これを想うと、今さらのように armer Thor の嘆が真実であることを感ずる。・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・寒さは余りひどくなかったが、単調な、広漠たる、あらゆるものの音を呑み込んでしまうような沈黙をなしている雪が、そこら一面に空虚と死との感じを広がらせている。いつも野らで為事をしている百姓の女房の曲った背中も、どこにも見えない。河に沿うて、河か・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・と叫ぶ夫の声は既に上ずって、空虚な感じのものでした。 私は起きて寝巻きの上に羽織を引掛け、玄関に出て、二人のお客に、「いらっしゃいまし」 と挨拶しました。「や、これは奥さんですか」 膝きりの短い外套を着た五十すぎくらいの・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・万象を時と空間の要素に切りつめた彼には色彩の美しさなどはあまりに空虚な幻に過ぎないかもしれない。 三元的な彫刻には多少の同情がある。特に建築の美には歎美を惜しまないそうである。 そう云えば音楽はあらゆる芸術の中で唯一の四元的のものと・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 三声五声抱えの芸名なんかを呼んでいたかと思うと、だんだん訳がわからなくなって、調子に乗ってぎゃあぎゃあ空虚な声で饒舌りつづけていた。「またやっているな」道太は下の座敷の庭先きのところに胡坐を組んで、幾種類となくもっているおひろの智・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫