・・・ 松野謹三、渠は去年の秋、故郷の家が焼けたにより、東京の学校を中途にして帰ったまま、学資の出途に窮するため、拳を握り、足を爪立てているのである。 いや、ただ学資ばかりではない。……その日その日の米薪さえ覚束ない生活の悪処に臨んで、―・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・彼等は生活に窮するより外、道がなかった。 板壁の釘が腐って落ちかけた木造の家に彼等は住んでいた。屋根は低かった。家の周囲には、藁やごみを散らかしてあった。 処々に、うず高く積上げられた乾草があった。 荷車は、軒場に乗りつけたまま・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・それに、自分は、お金があり余って処置に窮するほどの金満家でもありませんから、返してもらって助かりました。君たちは本当にせぬかも知れぬが、自分の家では、昔からの借銭が残って月末のやりくりは大変であります。どっちの方が貧乏人なのか、わかったもの・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・あの屋賃を取りたてないからといって、べつに僕にとって生活に窮するというわけではない。たかだか小使銭の不自由くらいのものである。これはひとつ、あのめぐまれない老いた青年のために僕のその不自由をしのんでやろう。 僕はどうも芸術家というものに・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・けれども逆に、私が他人に煙草の火を貸した場合は、私はひどく挨拶の仕方に窮するのである。煙草の火を貸すという事くらい、世の中に易々たる事はない。それこそ、なんでもない事だ。貸すという言葉さえ大袈裟なもののように思われる。自分の所有権が、みじん・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・と云わしてやらんものをと乗らぬ先から当人はしきりに乗り気になる、然るにハンドルなるもの神経過敏にてこちらへ引けば股にぶつかり、向へ押しやると往来の真中へ馳け出そうとする、乗らぬ内からかくのごとく処置に窮するところをもって見れば乗った後の事は・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・太閤様と正成とどっちが偉いとか、ワシントンとナポレオンとどっちが強いとか、常陸山と弁慶と相撲を取ったらどっちが勝つとか、中には返答に困らないのもあるが、多くは挨拶に窮する問題である。要するに複雑な内容を纏め得る程度以上に纏めた簡略な形式にし・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・みは身を損じ愚弄を招くの媒たるを知り、早々にその座を切上げて不体裁の跡を収め、下士もまた上士に対して旧怨を思わず、執念深きは婦人の心なり、すでに和するの敵に向うは男子の恥るところ、執念深きに過ぎて進退窮するの愚たるを悟り、興に乗じて深入りの・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・それも理窟詰に押詰められたならば、固よりその極端に至って答えに窮する事はきまっているが、僕はただそういう事が一番自分にわかりやすいので勝手に信じて居るまでの事である。しかし宗教などで言うように、この世で善をすれば次の世で善報を受けるなどとい・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・の説明にも窮することがないであろう。生産文学と呼ばれる作品が、何故今日、その隆盛のために却って一般の心に、文学とは何であろうかという本質的な反問を呼び醒ましつつあるのであろうか。「麦と兵隊」に、死んだ支那兵のポケットにまだ動いている時計・・・ 宮本百合子 「生産文学の問題」
出典:青空文庫