・・・五六人の女婢手を束ねて、ぼんやり客俟の誰彼時、たちまちガラ/\ツとひきこみしは、たしかに二人乗の人力車、根津の廓からの流丸ならずば権君御持参の高帽子、と女中はてん/″\に浮立つゝ、貯蓄のイラツシヤイを惜気もなく異韻一斉さらけだして、急ぎいで・・・ 永井荷風 「上野」
・・・懐から出すとぶるぶると体を振るようにしてあぶなげに立つ。悲しげな目で人を見た。目が涙で湿おうて居た。雀の毛をったように痩せて小さかった。お石は可哀想だから救って来たのだといった。太十は独で笑いながら懐へ入れて見ると矢張りくるりとなって寝た。・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・と、ぬらりとあやしい字が出来る。「こう湿気てはたまらん」と眉をひそめる。女も「じめじめする事」と片手に袂の先を握って見て、「香でも焚きましょか」と立つ。夢の話しはまた延びる。 宣徳の香炉に紫檀の蓋があって、紫檀の蓋の真中には猿を彫んだ青・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・停年教授はと見ていると、彼は見掛によらぬ羞かみやと見えて、立つて何だか謝辞らしいことを述べたが、口籠ってよく分らなかった。宴が終って、誰もかれも打ち寛いだ頃、彼は前の謝辞があまりに簡単で済まなかったとでも思ったか、また立って彼の生涯の回顧ら・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・話そうとすると、何を言うんですと言ッて腹を立つッて、平田は弱りきッていたんだ」「だッて、私ゃ否ですもの」と、吉里は自分ながらおかしくなったらしくにっこりした。「それ御覧。それだもの。平田が談話すことが出来るものか。お前さんの性質も、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・世界に二つと無い物で、もう盗まれてから大ぶの年が立つ。それを盗んだのはおれだ。世界中捜しても知れない。おれが持っている。おれが盗んだのだ。なんでもふいと盗んだのだ。その時の事はもう精しくは知っていない。忘れてしまった。とにかくその青金剛石は・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・勝て清を尽し人の目に立つ程なるは悪し。只我身に応じたるを用べし。 身の装も衣裳の染色模様なども目に立たぬようにして唯我身に応じたるを用う可しと言う。質素を主として家の貧富に従うの意ならん。我輩の同意する所なれども、衣裳は婦人の最・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・この卑下、正直、芸術尊敬の三つのエレメントが抱和した結果はどうかと云うに、まあ、こんな事を考える様になったんだ――将来は知らず、当時の自分が文壇に立つなどは僭越至極、芸術を辱しむる所以である。正直の理想にも叶って居らん……と思うものの、また・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・と云う電信をお発し下さいましたら、わたくしはすぐにパリイへ立つことにいたしましょう。済みませんが、も一つお願いがございます。御親切ついでに、どうぞあなたの方からお尋なすって下さいまし。あなたのお住いへ伺うことは憚りますのですから。わたくしは・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・そして今まで燃えた事のある甘い焔が悉く再生して凝り固った上皮を解かしてしまって燃え立つようだ。この良心の基礎から響くような子供らしく意味深げな調を聞けば、今まで己の項を押屈めていた古臭い錯雑した智識の重荷が卸されてしまうような。そして遠い遠・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫