・・・今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺いを立てるんだからね、そのつもりでいるんだよ」 女の子はまっ黒な婆さんの顔へ、悲しそうな眼を挙げました。「今夜ですか?」「今夜の十二時。好いかえ? 忘れちゃいけないよ」 印度人の婆さんは、脅・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・立ちどまってみると、ぼくのからだはぶるぶるふるえて、ひざ小僧と下あごとががちがち音を立てるかと思うほどだった。急に家がこいしくなった。おばあさまも、おとうさんも、おかあさんも、妹や弟たちもどうしているだろうと思うと、とてもその先までどなって・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・最早鋭い牙を、よしや打たれてもこの人たちに立てることが出来ぬようになったのを怖れるのだ。平生の人間に対する憤りと恨みとが、消えたために、自ら危んだのだ。どの子もどの子も手を出して摩るのだ。摩られる度に、犬はびくびくした。この犬のためにはまだ・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・……が、底ともなく、中ほどともなく、上面ともなく、一条、流れの薄衣を被いで、ふらふら、ふらふら、……斜に伸びて流るるかと思えば、むっくり真直に頭を立てる、と見ると横になって、すいと通る。 時に、他に浮んだものはなんにもない。 この池・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 去年母の三年忌で、石塔を立て、父の名も朱字に彫りつけた、それも父の希望であって、どうせ立てるならばおれの生きてるうちにとのことであったが、いよいよでき上がって供養をしたときに、杖を力に腰をのばして石塔に向かった父はいかにも元気がなく影・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・鴎外は向腹を立てる事も早いが、悪いと思うと直ぐ詫まる人だった。 鴎外は人に会うのが嫌いで能く玄関払いを喰わしたという噂がある。晩年の鴎外とは疎縁であったから知らないが、若い頃の鴎外はむしろ客の来るのを喜んで、鴎外の書斎はイツモお客で賑わ・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・小さな火鉢にわずかばかりの炭をたいたのでは、湯気を立てることすら不十分で、もとより室を暖めるだけの力はなかった。しかし、炭をたくさん買うだけの資力のないものはどうしたらいいか、それよりしかたはないのだ。近所に、宏荘な住宅はそびえている。それ・・・ 小川未明 「三月の空の下」
・・・お君はもう笑い声を立てることもなかった。お君の関心が豹一にすっかり移ってしまったので、安二郎は豹一の存在を徳とし、豹一の病気を本能的に怖れていても公然とはいやな顔をしなかった。 しかし豹一は二月も寝ていなかった。絶えず何かの義務を自分に・・・ 織田作之助 「雨」
・・・その代り俺の方で惣治からの仕送りを断るから、それでお前は別に生計を立てることにしたがいいだろう。とにかくいっしょにいるという考えはよくない」 気のいい老父は、よかれ悪かれ三人の父親である耕吉の、泣いて弁解めいたことを言ってるのに哀れを催・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・お前はすぐ爪を立てるのだから。 梶井基次郎 「愛撫」
出典:青空文庫