・・・ 過去の面影と現在の苦痛不安とが、はっきりと区画を立てておりながら、しかもそれがすれすれにすりよった。銃が重い、背嚢が重い、脚が重い。腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとはわからぬ。 褐色の道路・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・そこで幾ら立て替えておいてくれたのかい。」「六百マルクでございます。秘密警察署の方は官吏でございますから、報酬は取りませんが、私立探偵事務所の方がございますので。どうぞ悪しからず。それから潜水夫がお心付けを戴きたいと申しました。」 ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・そしてそれを切り刻んで新しく組立てた「時空の世界像」をそこに安置した。それで重力の秘密は自明的に解釈されると同時に古い力学の暗礁であった水星運動の不思議は無理なしに説明され、光と重力の関係に対する驚くべき予言は的中した。もう一つの予言はどう・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・煙管を持つ手や、立てている膝頭のわなわな戦いているのも、向合っている主の目によく見えた。「忘れもしねえ、それが丁度九月の九日だ。私はその時、仕事から帰って、湯に行ったり何かしてね、娘どもを相手に飯をすまして、凉んでるてえと、××から忰の・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・しかるに彼ら閣臣の輩は事前にその企を萌すに由なからしむるほどの遠見と憂国の誠もなく、事後に局面を急転せしむる機智親切もなく、いわば自身で仕立てた不孝の子二十四名を荒れ出すが最後得たりや応と引括って、二進の一十、二進の一十、二進の一十で綺麗に・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 碑の立てられた文化九年には南畝は既に六十四歳になっていた。江戸から遠くここに来って親しく井の水を掬んだか否か。文献の徴すべきものがあれば好事家の幸である。 わたくしは戦後人心の赴くところを観るにつけ、たまたま田舎の路傍に残された断・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・彼は能く唄ったけれど鼻がつまって居る故か竹の筒でも吹くように唯調子もない響を立てるに過ぎない。性来頑健は彼は死ぬ二三年前迄は恐ろしく威勢がよかった。死ぬ迄も依然として身体は丈夫であったけれど何処となく悄れ切って見えた。それは瞽女のお石がふっ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・脚気を気にする男は、指を立てて坤の方をさして「あちらだ」と云う。鉄牛寺の本堂の上あたりでククー、ククー。「一声でほととぎすだと覚る。二声で好い声だと思うた」と再び床柱に倚りながら嬉しそうに云う。この髯男は杜鵑を生れて初めて聞いたと見える・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・集れる人々の中には、彼のつまらない生涯を臆面もなくくだくだと述べ立てたのに対して、嫌気を催したものもあったであろう、心窃に苦笑したものもあったかも知れない。しかし凹字形に並べられたテーブルに、彼を中心として暫く昔話が続けられた。その中、彼は・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・あの中世紀の魔教サバトの徒は、耶蘇とキリスト教とを冒涜する目的から、故意に模擬の十字架を立てて裸女を架け、或は幼児を架けて殺戮した。反キリストの詩人ニイチェの意味に於て、Ecce homo がまた同じく、キリスト教への魔教的冒涜を指示してゐ・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
出典:青空文庫