・・・ 夜になると、怪我をしない郭と、若いボーイが扉のかげで立話をした。倉庫の鍵を外套から氷の上へガチャッと落した。やがて、橇に積んだボール紙の箱を乾草で蔽いかくし、馬に鞭打って河のかなたへ出かけて行った。「あいつ、とうとう行っちゃったぞ・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ごく懇意でありまたごく近くである同じ谷中の夫の同僚の中村の家を訪い、その細君に立話しをして、中村に吾家へ遊びに来てもらうことを請うたのである。中村の細君は、何、あなた、ご心配になるようなことではございますまい、何でもかえってお喜びになるよう・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・植木坂の下あたりには、きまりでそのへんの門のわきに立ち話する次郎の旧い遊び友だちを見いだす。ある若者は青山師範へ。ある若者は海軍兵学校へ。七年の月日は私の子供を変えたばかりでなく、子供の友だちをも変えた。 居住者として町をながめるのもそ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・こう学士が立話をすると、土地から出て植物学を専攻した日下部は亡くなった生徒の幼少い時のことなどを知っていて、十歳の頃から病身な母親の世話をして、朝は自分で飯を炊き母の髪まで結って置いて、それから小学校へ行った……病中も、母親の見えるところに・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ カメラをさげて歩いている途中で知人に会ってちょっと立ち話をするとする。そのとき、相手の人によると自分のカメラをさげていることなどにはあまり無関心なように見えるが、また人によると、何よりも第一にすぐ写真機に目をつける人もある。同病相哀れ・・・ 寺田寅彦 「カメラをさげて」
・・・ ある途上で、一人の若い背の高い西洋人の前に、四五人の比較的に背の低いしかし若くて立派な日本人が立ち並んで立ち話をしていた。何を話しているかはわからなかったが、ただ一瞥でその時に感ぜられたことは、その日本の紳士たちのその西洋人に対する態・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・その前で坊さんが二人立ち話をしている。 門を出ると外はからっ風が吹きあれていました。堂の前を右へ回ると塔へ上る階段がある。 薄暗い螺旋形の狭い階段を上って行く。壁には一面のらく書きがしてある。たいてい見物人の名前らしい。登りつめて中・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・英国人のオージルヴィ君や、ルーマニアのギリッチ君などとよく教室入口の廊下で立話をした。後者は今ベルグラードの観測所に居るが前者の消息は分らない。ドイツ学生の中にはずいぶん不真面目らしい茶目や怠け者も居て一体に何となく浮世臭い匂がこの教室全体・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・店で買物をしている人たちも、往来で立話をしている人たちも、皆が行儀よく、諧調のとれた低い静かな声で話をしていた。それらの話や会話は、耳の聴覚で聞くよりは、何かの或る柔らかい触覚で、手触りに意味を探るというような趣きだった。とりわけ女の人の声・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ここでは店先を片づけて、人出入りも多く、それが今度出てゆく若主人らしい人が、店先で親類らしい中年者と立ち話をしたりしている。そこには緊張して遑しい仕度の空気が漲っていた。米屋の商売も、全くこれ迄とはちがったものになりかかっている最中のことだ・・・ 宮本百合子 「今日の耳目」
出典:青空文庫