・・・かよわいその人の、一人、毛氈に端坐して、城の見ゆる町を遥に、開いた丘に、少しのぼせて、羽織を脱いで、蒔絵の重に片袖を掛けて、ほっと憩らったのを見て、少年は谷に下りた。が、何を秘そう。その人のいま居る背後に、一本の松は、我がなき母の塚であった・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・この人の顔さえ定かならぬ薄暗い室に端座してベロンベロンと秘蔵の琵琶を掻鳴らす時の椿岳会心の微笑を想像せよ。恐らく今日の切迫した時代では到底思い泛べる事の出来ない畸人伝中の最も興味ある一節であろう。 椿岳の女道楽もまた畸行の一つに数うべき・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・きちんと履物をそろえて書斎の中に端坐し、さて机の上の塵を払ってから、書き出したような作品に、もはや何の魅力があろう。 これまで、日本の文学は、俳句的な写実と、短歌的な抒情より一歩も出なかった。つまりは、もののあわれだ。「ファビアン」や「・・・ 織田作之助 「土足のままの文学」
・・・ 鴎外は子供の前で寝そべった姿を見せたことがないというくらい厳格な人だったらしいから、書見をされる時も恐らく端坐しておられたことであろうと思われるが、僕は行儀のわるいことに、夜はもちろん昼でも寝そべらないと本が読めない。従って赤鉛筆で棒・・・ 織田作之助 「僕の読書法」
・・・机の前に端座して生徒の清書を点検したり、作文を観たり、出席簿を調べたり、倦ぶれた時はごろりとそこに寝ころんで天井をながめたりしている。 午後二時、この降るのに訪ねて来て、中二階の三段目から『時田!』と首を出したのは江藤という画家である、・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・後藤新平は母の棺の前に羽織、袴で端座して、弔客のあるごとに、両手をついて、「母上様誰それがきてくれました」と報じて、涙をこぼしたということだ。 母親が子どもを薫陶した例は昔から枚挙にいとまない。 孟子の母の断機、三遷の話、源信僧都の・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・あんまり緊張して、ついには机のまえに端座したまま、そのまま、沈黙は金、という格言を底知れず肯定している、そんなあわれな作家さえ出て来ぬともかぎらない。 謙譲を、作家にのみ要求し、作家は大いに恐縮し、卑屈なほどへりくだって、そうして読者は・・・ 太宰治 「一歩前進二歩退却」
・・・鴎外が芝居を見に行ったら、ちょうど舞台では、色のあくまでも白い侍が、部屋の中央に端坐し、「どれ、書見なと、いたそうか。」と言ったので、鴎外も、これには驚き閉口したと笑って書いて在った。 諸君は、いま私と一緒に、鴎外全集を読むのであるが、・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・○机に向って端座し、十円紙幣をつくづく見つめた。不思議のものであった。○肉親地獄。○安い酒ほど、ききめがいい。○鏡を覗いてみて、噴きだした。所詮、恋愛を語る顔でなし。○もとをただせば、野山のすすきか。○あたりまえの人・・・ 太宰治 「古典風」
・・・ごはんを食べてしまって部屋に一人で端座していると、さむらいは睡魔に襲われるところとなった。ひどく眠い。机の上の電話で、階下の帳場へ時間を聞いた。さむらいには時計が無いのである。六時四十分。いまから寝ては、宿の者に軽蔑されるような気がした。さ・・・ 太宰治 「佐渡」
出典:青空文庫