・・・が、誰も笑うものはなかった。のみならず皆なぜともなしに黙って足ばかり運んでいた。「さあこの辺から引っ返すかな。」 僕等はMのこう言った時、いつのまにかもう風の落ちた、人気のない渚を歩いていた。あたりは広い砂の上にまだ千鳥の足跡さえか・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・泣くにつけ、笑うにつけ、面白がるにつけ淋しがるにつけ、お前たちを見守る父の心は痛ましく傷つく。 然しこの悲しみがお前たちと私とにどれ程の強みであるかをお前たちはまだ知るまい。私たちはこの損失のお蔭で生活に一段と深入りしたのだ。私共の根は・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・B 笑ってもいないじゃないか。A 可笑しくもない。B 笑うさ。可笑しくなくったって些たあ笑わなくちゃ可かん。はは。しかし何だね。君は自分で飽きっぽい男だと言ってるが、案外そうでもないようだね。A 何故。B 相不変歌を作っ・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 真暗な杉に籠って、長い耳の左右に動くのを、黒髪で捌いた、女顔の木菟の、紅い嘴で笑うのが、見えるようで凄じい。その顔が月に化けたのではない。ごらんなさいましという、言葉が道をつけて、隧道を覗かす状に、遥にその真正面へ、ぱっと電燈の光のや・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 省作はただ笑う仲間にばかりなって一向に話はできない。満蔵はもう一俵の米を搗き上げてしまった。兄は四俵の俵をあみ上げる。省作の繩ないはやはりおはまの仲間で、二人とも二把の藁がない切れない。兄はもう家じゅう手ぞろいで仕事をすればきげんはよ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・酔いもまわったのであろう、友人は、気質に似合わず、非常にいい気持ちの様子で、にこにこ笑うている。然し、その笑いが何となく寂しいのは、友人の周囲を僕に思い当らしめた。「久し振りで君が尋ねて来て、今夜はとまって呉れるのやさかい、僕はこないに・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ドコの百姓が下らぬ低級の落語に見っともない大声を出して笑うのかと、顧盻って見ると諸方の演説会で見覚えの島田沼南であった。例の通りに白壁のように塗り立てた夫人とクッつき合って、傍若無人に大きな口を開いてノベツに笑っていたが、その間夫人は沼南の・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・うのは、ある人がたくさん金がもうかったときには、一方ではまたたいへんに損をするというようなぐあいで、みんなの気持ちがいつも一つではなかったから、怒るものもあれば、また喜ぶものがあり、中には泣くものまた笑うものがあるというふうで、その間に嫉妬・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・とニヤリ歯を見せて笑う。 お光はサッと顔を赤くしたが、「つまらないことをお言いでないよ! 昔馴染みだとか、他人のように思えないだとか、何か私と厭らしいことでもあったようで、人聞きが悪いじゃないか」「へへ、誰も人は聞いてやしませんから・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・想えばげすの口の端に、掛って知った醜さは、南蛮渡来の豚ですら、見れば反吐をば吐き散らし、千曲川岸の河太郎も、頭の皿に手を置いて、これはこれはと呆れもし、鳥居峠の天狗さえ、鼻うごめいて笑うという、この面妖な旗印、六尺豊かの高さに掲げ、臆面もな・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
出典:青空文庫