・・・あの女が笑顔を見せていたのは、残念ながら僕にじゃない。賄征伐の大将、リヴィングストンの崇拝家、ETC. ETC. ……ドクタア和田長平にだったんだ。」「しかしまあ哲学通りに、飛び下りなかっただけ仕合せだったよ。」 無口な野口も冗談を・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・ Mは膝ほどある水の中に幾分か腰をかがめたなり、日に焼けた笑顔をふり向けて見せた。「君もはいれよ。」「僕は厭だ。」「へん、『嫣然』がいりゃはいるだろう。」「莫迦を言え。」「嫣然」と言うのはここにいるうちに挨拶ぐらいは・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・フランシスはついた狐が落ちたようにきょとんとして、石畳から眼をはなして、自分を囲むいくつかの酒にほてった若い笑顔を苦々しげに見廻わした。クララは即興詩でも聞くように興味を催おして、窓から上体を乗出しながらそれに眺め入った。フランシスはやがて・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・少し痩せて身長の高い先生は笑顔を見せて僕を見おろしていられました。僕は眠ったために気分がよくなって今まであったことは忘れてしまって、少し恥しそうに笑いかえしながら、慌てて膝の上から辷り落ちそうになっていた葡萄の房をつまみ上げましたが、すぐ悲・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・ 五 我を忘れてお民は一気に、思い切っていいかけた、言の下に、あわれ水ならぬ灰にさえ、かず書くよりも果敢げに、しょんぼり肩を落したが、急に寂しい笑顔を上げた。「ほほほほほ、その気で沢山御馳走をして下さいまし。・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・まだ一度も笑顔を見せなかった美人も、いまは花のごときえみをたたえて紅葉をよろこんだ。晩食には湖水でとれた鯉の洗いを馳走してくれ、美人の唇もむろん昼ほどは固くなく、予は愉快な夢を見たあとのような思いで陶然として寝についた。・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・かの女もそれに釣り込まれて、笑顔を向け、炉のそばに来て座を取った。 薬罐のくらくら煮立っているのが、吉弥のむしゃくしゃしているらしい胸の中をすッかり譬えているように、僕の妻には見えた。 大きな台どころに大きな炉――くべた焚木は燃えて・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・いつもニコニコ笑顔を作って僅か二、三回の面識者をさえ百年の友であるかのように遇するから大抵なものはコロリと参って知遇を得たかのように感激する。政治家や実業家には得てこういう人を外らさない共通の如才なさがあるものだが、世事に馴れない青年や先輩・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 下を向いて仕事をしていた男は、隣の屋根から、こちらを向いて、みょうな男が顔を出してものをいったので、気むずかしい顔を上げてみましたが、急に笑顔になって、「やあ、お隣の先生ですか。さあ、どうぞ、そこからお入りください。」と、男はいい・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・と言って、女は無理に笑顔を作る。「え」と男は思わず目を見張って顔を見つめたが、苦笑いをして、「笑談だろう?」「あら、本当だよ。去年の秋嫁いて……金さんも知っておいでだろう、以前やっぱり佃にいた魚屋の吉新、吉田新造って……」「吉田・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫