・・・そうして、その中の一枚を山川技師の眼の前へひろげると、指である箇所をさしながら、読み給えと云う眼つきをした。それがあまり唐突だったので、技師はちょいと驚いたが、相手の少佐が軍人に似合わない、洒脱な人間だと云う事は日頃からよく心得ている。そこ・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・保吉は英吉利語の教科書の中に難解の個所を発見すると、必ず粟野さんに教わりに出かけた。難解の、――もっとも時間を節約するために、時には辞書を引いて見ずに教わりに出かけたこともない訣ではない。が、こう云う場合には粟野さんに対する礼儀上、当惑の風・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ 盗人は妻が逃げ去った後、太刀や弓矢を取り上げると、一箇所だけおれの縄を切った。「今度はおれの身の上だ。」――おれは盗人が藪の外へ、姿を隠してしまう時に、こう呟いたのを覚えている。その跡はどこも静かだった。いや、まだ誰かの泣く声がする。・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・十四箇所の貫通創を受けた。『軍曹どの、やられました!』『砲弾か小銃弾か?』『穴は大きい』『じゃア、後方にさがれ!』『かしこまりました!』て一心に僕は駆け出したんやだど倒れて夢中になった。気がついて見たら『しっかりせい、し・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・という個所があるそうだが「お殺し」という言葉を見ると、何かこの「お食事がついているわよ」を聯想させられるのである。 志賀直哉氏の文学のよさは相当文学に年期を入れたものでなくては判らぬのである。文学を勉強しようと思っている青年が先輩から、・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・それどころか、その人の弱みにつけ込んだような感想をほしいままにした個所も多い。合駒を持たぬ相手にピンピンと王手王手を掛けるようなこともした。いたわる積りがかえってその人の弱みをさらけ出した結果ともなってしまったのだ。その人は字は読めぬ人だ、・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・という個所まで来ると、道子の眼は急に輝いた。道子はまるで活字をなめんばかりにして、その個所をくりかえしくりかえし読んだ。「応募資格ハ男女ヲ問ハズ、専門学校……。」 道子はふと壁の額にはいった卒業免状を見上げた。姉の青春を、いや、姉の・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
・・・ それは、その如何にも新らしい快よい光輝を放っている山本山正味百二十匁入りのブリキの鑵に、レッテルの貼られた後ろの方に、大きな凹みが二箇所というもの、出来ていたのであった。何物かへ強く打つけたか、何物かで強く打ったかとしか思われない、ひ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・その破れた箇所には、また巧妙な補片が当っていて、まったくそれは、創造説を信じる人にとっても進化論を信じる人にとっても、不可思議な、滑稽な耳たるを失わない。そしてその補片が、耳を引っ張られるときの緩めになるにちがいないのである。そんなわけで、・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・お前のいう通り若くて上品で、それから何だッけな、うむその沈着いていて気性が高くて、まだ入用ならば学問が深くて腕が確かで男前がよくて品行が正しくて、ああ疲労れた、どこに一箇所落ちというものがない若者だ。 たんとそんなことをおっしゃいまし。・・・ 川上眉山 「書記官」
出典:青空文庫