・・・それは勿論戸の節穴からさして来る光のためだったのです。しかし僕は腹ばいになり、一本の巻煙草をふかしながら、この妙に澄み渡った、小さい初秋の風景にいつにない静かさを感じました。……… ではさようなら。東京ももう朝晩は大分凌ぎよくなっている・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・ 菓子の色、紙の白きさえ、ソレかと見ゆるに、仰げば節穴かと思う明もなく、その上、座敷から、射し入るような、透間は些しもないのであるから、驚いて、ハタと夫人の賜物を落して、その手でじっと眼を蔽うた。 立花は目よりもまず気を判然と持とう・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・こんな蒸暑さでも心得は心得で、縁も、戸口も、雨戸はぴったり閉っていましたが、そこは古い農家だけに、節穴だらけ、だから、覗くと、よく見えました。土間の向うの、大い炉のまわりに女が三人、男が六人、ごろんごろん寝ているのが。 若い人が、鼻紙を・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・街道を突っ切って韮、辣薤、葱畑を、さっさっと、化けものを見届けるのじゃ、静かにということで、婆が出て来ました納戸口から入って、中土間へ忍んで、指さされるなりに、板戸の節穴から覗きますとな、――何と、六枚折の屏風の裡に、枕を並べて、と申すのが・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・それは途中にただ一軒の人家しかない、そしてその家の燈がちょうど戸の節穴から写る戸外の風景のように見えている、大きな闇のなかであった。街道へその家の燈が光を投げている。そのなかへ突然姿をあらわした人影があった。おそらくそれは私と同じように提灯・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
病の牀に仰向に寐てつまらなさに天井を睨んで居ると天井板の木目が人の顔に見える。それは一つある節穴が人の眼のように見えてそのぐるりの木目が不思議に顔の輪廓を形づくって居る。その顔が始終目について気になっていけないので、今度は右向きに横に・・・ 正岡子規 「ランプの影」
・・・煤で光るたるきの下に大きな炉が一つ切ってあって、その炉の灰ばかりが、閉め切った雨戸の節穴からさし込む日光の温みにつれ、秋の末らしく湿り、また春の始めらしく軽く乾く。――微かな生きものだ。 侘しい古い家も、七月になると一時に雨戸という雨戸・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
・・・私たちが、ものをいわされず、書かされないとき、ちょうど節穴から一筋の日光がさしこむようにチラリと洩らされる正義の情、抑圧への反抗は、いわば、人々の間に暗黙のうちに契約となったいくつかの暗号のようなものであった。義太夫ずきの爺さんが、すりへっ・・・ 宮本百合子 「現代の主題」
・・・という小説は、たとえていえば板塀にある節穴から、街頭をのぞいているようなもので、小さい穴からでも目の前を動いてゆく光景のうつりかわりはよく見えた。そういうなだらかさ、癖のないというだけのきりこみでは「軍服」の軍隊生活という特別な、常識はずれ・・・ 宮本百合子 「小説と現実」
・・・――疲れた時、コンセントレートしたい時、節穴さえあるかもしれない板一枚の彼方で、此、手ばなしの大騒ぎをやられてはかなわない。其もよかろう。然し、門口の植木をられたり、御用ききに廻る中僧などと、十二三の女の子が、露骨な性的痴談を、声高にやって・・・ 宮本百合子 「又、家」
出典:青空文庫