・・・兵衛はまず供の仲間が、雨の夜路を照らしている提灯の紋に欺かれ、それから合羽に傘をかざした平太郎の姿に欺かれて、粗忽にもこの老人を甚太夫と誤って殺したのであった。 平太郎には当時十七歳の、求馬と云う嫡子があった。求馬は早速公の許を得て、江・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・のお上の一張羅の上へ粗忽をしたのです。ところが「青ペン」のお上と言うのは元来猫が嫌いだったものですから、苦情を言うの言わないのではありません。しまいには飼い主のお松にさえ、さんざん悪態をついたそうです。するとお松は何も言わずに「三太」を懐に・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・私一人の粗忽にして、きっと御登城おさせ申しましょう。」 これを聞くと、修理の顔は、急に別人の如く喜びにかがやいた。その変り方には、役者のような巧みさがある。がまた、役者にないような自然さもある。――彼は、突然調子の外れた笑い声を洩らした・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・己れだって粗忽な真似はし無えで、兄弟とか相棒とか云って、皮のひんむける位えにゃ手でも握って、祝福の一つ二つはやってやる所だったんだ。誓言そうして見せるんだった。それをお前帽子に喰着けた金ぴかの手前、芝居をしやがって……え、芝居をしやがったん・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・途端に、満右衛門は頭を畳に付けて、「――田舎者の粗忽許して下され」 と、煮えくりかえる胸まで畳につけんばかりに、あやまった。 すると相手は、「――暫く其の儘で……」 と、満右衛門の天窓の上で咳などをして、そして、言うこと・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・りて草紙となしたるを見侍るに通篇俚言俗語の語のみを用いてさまで華あるものとも覚えぬものから句ごとに文ごとにうたゝ活動する趣ありて宛然まのあたり萩原某に面合わするが如く阿露の乙女に逢見る心地す相川それの粗忽しき義僕孝助の忠やかなる読来れば我知・・・ 著:坪内逍遥 校訂:鈴木行三 「怪談牡丹灯籠」
・・・西洋人の衣食住を模し、西洋人の思想を継承しただけで、日本人の解剖学的特異性が一変し、日本の気候風土までも入れ代わりでもするように思うのは粗忽である。 余談ではあるが、皮膚の色だけで、人種を区別するのもずいぶん無意味に近い分類である。人と・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・それに対する粗忽干万なジゥルナリズムの批評も聞こう。同業者の誼みにあんまり黙っていても悪いようなら議論のお相手もしよう。けれども要するに、それはみんな身過ぎ世過ぎである。川竹の憂き身をかこつ哥沢の糸より細き筆の命毛を渡世にする是非なさ……オ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・――おい、君粗忽で人の足を踏んだらどっちが謝まるものだろう」「踏んだ方が謝まるのが通則のようだな」「突然、人の頭を張りつけたら?」「そりゃ気違だろう」「気狂なら謝まらないでもいいものかな」「そうさな。謝まらさす事が出来れ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ このような現実は、結婚の質を低めているばかりでなく、当面には恋愛の質をも粗悪、粗忽にしていると思う。いつかわが手から落ちるだろうと思って摘む花を、誰が一々やかましく吟味して眺め、研究して掴むだろう。そういう、とことんのところで消極的な・・・ 宮本百合子 「成長意慾としての恋愛」
出典:青空文庫