・・・旅の服装も、お粗末である。 いつか、井伏さんが釣竿をかついで、南伊豆の或る旅館に行き、そこの女将から、「お部屋は一つしか空いて居りませんが、それは、きょう、東京から井伏先生という方がおいでになるから、よろしく頼むと或る人からお電話で・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・実に粗末なものではあるが、しかし釉の色が何となく美しく好もしいので試しに値を聞くと五拾銭だという。それでは一つ貰いましょうと云って、財布を取り出すために壷を一度棚に返そうとする時に、どうした拍子か誤ってその壷を取り落した。下には磁器の堅いも・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・最初に登場する寺子屋の寺子らははなはだ無邪気でグロテスクなお化けたちであるが、この悲劇への序曲として後にきたるべきもののコントラストとしての存在である以上は、こうした粗末な下手な子供人形のほうが、あるいはかえって生きたよだれくりどもよりよい・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・かった、また今でも接触を避ける訳に行かないかの西洋の開化というものは我々よりも数十倍労力節約の機関を有する開化で、また我々よりも数十倍娯楽道楽の方面に積極的に活力を使用し得る方法を具備した開化である。粗末な説明ではあるが、つまり我々が内発的・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・私は必要上、ごく粗末なところを、はなはだ短い時間内に御話するのであるから、無論豪い哲学者などが聞いておられたら、不完全だと云って攻撃せられるだろうと思います。しかしこの短い時間内に、こんな大袈裟な問題を片づけるのだから、無論完全な事を云うは・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ その頃には、今の大学の正門の所に粗末な木の門があった。竜岡町の方が正門であって、そこは正門ではなかったらしい。そこから入ると、すぐ今は震災で全く跡方もなくなった法文科大学の建物があった。それは青山御所を建てたコンドルという英人が建てた・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・それは大へん小さくて、地理学者や探険家ならばちょっと標本に持って行けそうなものではありましたがまだ全くあたらしく黄いろと赤のペンキさえ塗られていかにも異様に思われ、その前には、粗末ながら一本の幡も立っていました。 私は老人が、もう食事も・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・処 盛岡市郊外人物 爾薩待 正 開業したての植物医師ペンキ屋徒弟農民 一農民 二農民 三農民 四農民 五農民 六幕あく。粗末なバラック室、卓子二、一は顕微鏡を載せ一は客・・・ 宮沢賢治 「植物医師」
・・・あの作品の性質としてゆるがせにされないこういう箇処が割合粗末であった。おふみと芳太郎とは、漠然と瞬間、全く偶然にチラリと目を合わすきりで、それは製作者の表現のプランの上に全然とりあげられていなかったのである。後味の深さ、浅さは、かなりこうい・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・「これは粗末な物でございますが、お世話になったお礼に差し上げます。わたくしはもうこれでお暇を申します」こう言って舷に手をかけた。「たわけが」と、佐渡は髪をつかんで引き倒した。「うぬまで死なせてなるものか。大事な貨じゃ」 佐渡の二郎は・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫