・・・で、精一杯に売るものは。「何だい、こりゃ!」「美しい衣服じゃがい。」 氏子は呆れもしない顔して、これは買いもせず、貰いもしないで、隣の木の実に小遣を出して、枝を蔓を提げるのを、じろじろと流眄して、世に伯楽なし矣、とソレ青天井を向・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・決してあの、唯今のことにつきましておねだり申しますのではございません、これからは茶店を預ります商売冥利、精一杯の御馳走、きざ柿でも剥いて差上げましょう。生の栗がございますが、お米が達者でいて今日も遊びに参りましたら、灰に埋んで、あの器用な手・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ と精一杯に言ったのです。「いいえ、兄が一緒ですから……でも大雪の夜なぞは、町から道が絶えますと、ここに私一人きりで、五日も六日も暮しますよ。」 とほろりとしました。「そのかわり夏は涼しゅうございます。避暑にいらっしゃい……・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ きょうは早く行って、あの男またはその他の人に呼ばれないうちに、吉弥めをあげ、一つ精一杯なじってやろうと決心して、井筒屋へ行った。湯から帰ってすぐのことであった。「叔母さん」僕もここの家族の言いならしに従って、お貞婆アさんをそう呼ぶ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・六百円の保証金をつくるのさえ、精一杯だったのだ。それを、この上どこを叩いて二百円の金を出せというのか。しかし、出さねば、折角の保証金がフイになるかも知れない――と、むろん、そうはっきりと凄文句でおどしつけたわけではなかったが、彼等はそんな心・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・そんな金がどこからはいるのか、自分の仕送りは宿の払いに精一杯で、煙草代にも困るだろうと済まぬ気がしていたのにと不審に思った。女中の口から、柳吉がたびたび妹に無心していたことが分ると目の前が真暗になった。自分の腕一つで柳吉を出養生させていれば・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・らぬ知りませぬ憂い嬉しいもあなたと限るわたしの心を摩利支天様聖天様不動様妙見様日珠様も御存じの今となってやみやみ男を取られてはどう面目が立つか立たぬか性悪者めと罵られ、思えばこの味わいが恋の誠と俊雄は精一杯小春をなだめ唐琴屋二代の嫡孫色男の・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・それで精一杯の愛嬌を浮かべて媚びるようなしなを作りながら、あちらこちらと活発に蝙蝠傘をさし出していた。上から投げる貨幣のある物は傘からはね返って海に落ちて行った。時々よろけて倒れそうになって舷や人の肩につかまったりした。そうして息をはずませ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・この時期になると、こわいものに近よらず、自分たちを守るのが精一杯、という気風が瀰漫して、その人々のために、幅ひろい、なだらかな、そして底の知れない崩壊への道が、軍用トラックで用意されていたのであった。 そのころ、文芸家協会の事務所が、芝・・・ 宮本百合子 「ある回想から」
・・・と「精一杯の声を張りあげて歌い出した。」子供たちも「忽ちこれに同化されて歌い始めた。労働の歌が労働するものの心を融合し統一した」と作者は楽観している。 師範卒業生佐田の安直ぶりが、階級的発展の端緒としての意味をもつ未熟さ、薄弱さとして高・・・ 宮本百合子 「一連の非プロレタリア的作品」
出典:青空文庫