・・・博士神巫が、亭主が人殺しをして、唇の色まで変って震えているものを、そんな事ぐらいで留めはしない……冬の日の暗い納戸で、糸車をじい……じい……村も浮世も寒さに喘息を病んだように響かせながら、猟夫に真裸になれ、と歯茎を緊めて厳に言った。経帷子に・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・「……だって、椎の木婆さんが、糸車を廻す処ですもの、小豆洗ともいうんですわ。」 後前を見廻して、「それはね、城のお殿様の御寵愛の、その姉さんだったと言いましてね。むかし、魔法を使うように、よく祈りのきいた、美しい巫女がそこに居て・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・遠くで、いつもする糸車の音も響いて来なかった。けれど私の心は、此の四辺の静かな裡に一つあって、眠ることも出来なければ、安らかに居ることも出来なかった。この音のない天地を、小さな子供の努力でありながら、掻き乱したい。眠ることの出来ない孤独の我・・・ 小川未明 「感覚の回生」
・・・女達は、自から糸車を廻わして、糸をつむぎ、機に織って、それを着たのも珍らしくなかった。資本主義の波が、村々を襲って来たのは、それからである。この人達の、質実、素朴な生活の有様を、今から思い起すと、何となしになつかしい気がするばかりでなく、そ・・・ 小川未明 「単純化は唯一の武器だ」
・・・ おふくろが、昔、雨の日に、ぶん/\まわして糸を紡いだ糸車は、天井裏の物置きで、まッ黒に煤けていた。鼠が時に、その上にあがると、糸車は、天井裏でブルン/\と音をたてた。「あの音は、なんぞいの?」 晩のことだった。耳が遠くなったお・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・の数々のうちで、いちばん自分に親しみとなつかしみを感じさせるのは、昔のわが家のすすけた茶の間で、糸車を回している袖なし羽織を着た老媼の姿である。紋付きを着て撮った写真や、それをモデルにしてかいた油絵などを見ても、なんだかほんとうの祖母らしく・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・には行燈や糸車の幻影がいつでも伴なっており、また必ず夜寒のえんまこおろぎの声が伴奏になっているから妙である。 おはぐろ筆というものも近ごろはめったに見られなくなった過去の夢の国の一景物である。白い柔らかい鶏の羽毛を拇指の頭ぐらいの大きさ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・その頃のわが家を想い出してみると、暗いランプに照らされた煤けた台所で寒竹の皮を剥いている寒そうな母の姿や、茶の間で糸車を廻わしている白髪の祖母の袖無羽織の姿が浮び、そうして井戸端から高らかに響いて来る身に沁むような蟋蟀の声を聞く想いがするの・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・ちょうどそのころに枕もとのガラス窓――むやみに丈の高い、そして残忍に冷たい白の窓掛けをたれた窓の外で、キュル、キュル/\/\と、糸車を繰るような濁ったしかし鋭い声が聞こえだす。たぶんそれは雀らしい。いったいこの寒い夜中をどんな所にどうして寝・・・ 寺田寅彦 「病院の夜明けの物音」
・・・ところどころに泥水のたまった養魚池らしいものが見え、その岸に沿うた畦道に、夫婦らしい男と女とが糸車を廻して綱をよっている。その響が虻のうなるように際立って耳につくばかり、あたりは寂として枯蘆のそよぐ音も聞えないのは、日も漸く傾いて、ひとしき・・・ 永井荷風 「元八まん」
出典:青空文庫