・・・さきの河原で宿取って、鯰が出て、押えて、手で取りゃ可愛いし、足で取りゃ可愛いし、杓子ですくうて、線香で担って、燈心で括って、仏様のうしろで、一切食や、うまし、二切食や、うまし…… 紀州の毬唄で、隠微な残虐の暗示がある。む・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・――あのね、実はね、今夜あたり紀州のあの坊さんに、私が抱かれて、そこへ、熊沢だの甘谷だのが踏込んで、不義いたずらの罪に落そうという相談に……どうでも、と言って乗せられたんです。 ……あの坊さんは、高野山とかの、金高なお宝ものを売りに出て・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・彦少名命を祀るともいうし、神功皇后と応神天皇とを合祀するともいうし、あるいは女体であるともいうが、左に右く紀州の加太の淡島神社の分祠で、裁縫その他の女芸一切、女の病を加護する神さまには違いない。だが、この寺内の淡島堂は神仏混交の遺物であって・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・哀れな声で、針中野まで行くにはどう行けばよいのかと、紀州訛できいた。渡辺橋から市電で阿倍野まで行き、そこから大鉄電車で――と説明しかけると、いや、歩いて行くつもりだと言う。そら、君、無茶だよ。だって、ここから針中野まで何里……あるかもわから・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・ と言う婆さんを拝み倒して、村から村へ巡業を続け、やがて紀州の湯崎温泉へ行った。 温泉場のことゆえ病人も多く、はやりそうな気配が見えたので、一回二十銭の料金を三十銭に値上げしたが、それでも結構患者が集まった。「――どうです? 古・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・小供の一人、「紀州紀州」と呼びしが振向きもせで行過ぎんとす。うち見には十五六と思わる、蓬なす頭髪は頸を被い、顔の長きが上に頬肉こけたれば頷の骨尖れり。眼の光濁り瞳動くこと遅くいずこともなくみつむるまなざし鈍し。纒いしは袷一枚、裾は短かく襤褸・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 四日、初めて耕海入道と号する紀州の人と知る。齢は五十を超えたるなるべけれど矍鑠としてほとんと伏波将軍の気概あり、これより千島に行かんとなり。 五日、いったん湯の川に帰り、引かえしてまた函館に至り仮寓を定めぬ。 六日、無事。・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ 机の広い面に両手を這わせて、じいっとして居ると、いつの間にか、今紀州に居る歌人の安永さんの事を思い出した。 それにつれて、種々の事が頭を通りすぎた中にどうしても私に、あの人へのたよりを書かせずには置かない様な事があった。 早い・・・ 宮本百合子 「ひととき」
・・・それに容貌が分からぬばかりでなく、生国も紀州だとは云っているが、確としたことは分からぬらしい。只酒井家に奉公する前には、上州高崎にいたことがあると云うだけである。 その時、山本平作方へ突然尋ねて来た男がある。この男は近江国浅井郡の産で、・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫