・・・すべてが紙一重を距てた向うで行われているような気がした。顛覆した列車の窓からとび出た時の、石のような雪の感触や、パルチザンの小銃とこんがらがった、メリケン兵のピストルの轟然たる音響が、まだ彼の鼓膜にひゞいていた。 腕はしびれて重かった。・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・進み進んで、出来る、出来ない、成就不成就の紙一重の危い境に臨んで奮うのが芸術では無いでしょうか。」「そりゃそういえば確にそうだが、忍術だって入用のものだから世に伊賀流も甲賀流もある。世間には忍術使いの美術家もなかなか多いよ。ハハハ。」・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・いわんや、芸の上の進歩とか、大飛躍とかいうものは、ほとんど製作者自身には考えられぬくらいのおそろしいもので、それこそ天意を待つより他に仕方のないものだ。紙一重のわずかな進歩だって、どうして、どうして。自分では絶えず工夫して進んでいるつもりで・・・ 太宰治 「炎天汗談」
・・・ 入れ歯と歯ぐきとの接触の密なことは紙一重のすきまも許さないくらいのものらしい。どこかが少しきつく当たって痛むような場合に、その場所を捜し見つけ出してそこを木賊でちょっとこするとそれだけでもう痛みを感じなくなる。それについて思い出すのは・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・連俳の中の恋の句にはほとんど川柳と紙一重の区別も認め難いものがあり、また川柳の上乗なるものには、やはりあわれがあり風雅があることは争われない。しかし川柳の下等なものになると、表面上は機微な客観的真実の認識と描写があるようでも、句の背後からそ・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
出典:青空文庫