・・・音楽家はボーイを読んで勘定を命じながら内かくしから紙入れを捜ってその中から紙幣のたばを引出した。十円札が二、三十枚もありそうである。それを眼の高さに三十センチの処まで持って来て、さて器用な手つきをしてぱらぱらと数えて見せた。自分達は半ば羨ま・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・お座敷へいらッしゃいよ」「あ、そうかい。はははははは。そいつア剛気だ」 善吉はつと立ッて威勢よく廊下へ出た。「まアお待ちなさいよ。何かお忘れ物はございませんか。お紙入れは」 善吉は返事もしない。お熊が枕もとを片づけるうちに、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・連れが、その午後銀行から受取ったばかりの札を入れて、ふくらんでいる紙入れを、クロックのところで、一つの外ポケットから内ポケットへしまい替えた。クロックのところは混雑していて、人の目は多かった。 オペラをきいていると、一人の少年が私共のと・・・ 宮本百合子 「時計」
・・・紫地に花鳥を縫いつぶしたはこせこと紙入れをかねて居る様なものだった。お妙ちゃんはそれをそうっと抱きあげてしっかりと抱えながら私の目を見つめて居たが急に「お忘れやはるナ」こう云って狂った様にかんざしのかざりをふるわせて走(けて行ってしまった。・・・ 宮本百合子 「ひな勇はん」
出典:青空文庫