・・・久保田君の主人公はチエホフのそれよりも哀婉なること、なお日本の刻み煙草のロシアの紙巻よりも柔かなるが如し。のみならず作中の風景さえ、久保田君の筆に上るものは常に瀟洒たる淡彩画なり。更に又久保田君の生活を見れば、――僕は久保田君の生活を知るこ・・・ 芥川竜之介 「久保田万太郎氏」
・・・ 三十分の後、中佐は紙巻を啣えながら、やはり同参謀の中村少佐と、村はずれの空地を歩いていた。「第×師団の余興は大成功だね。N閣下は非常に喜んでいられた。」 中村少佐はこう云う間も、カイゼル髭の端をひねっていた。「第×師団の余・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・煙草好きな彼は更に新しい紙巻を取出して、それを燻して見せて、自分は今それほど忙しくないという意味を示したが、原の方ではそうも酌らなかった。「乙骨君は近頃なかなか壮んなようだねえ」 と不図思出したように、原は戸口のところに立って尋ねた・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・右には紙巻烟草を持っていた。左には鞭を持っていた。鞭を持っていたのは、慣れない為事で草臥れた跡で、一鞍乗って、それから身分相応の気晴らしをしようと思ったからである。 その晩のうちにチルナウエルは汽船に乗り込んで、南へ向けて立った。最初に・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・宅には東京平河町の土田という家で製した紙巻がいつも沢山に仕入れてあった。平河町は自分の生れた町だからそれが記憶に残っているのである。ピンヘッドとかサンライズとか、その後にはまたサンライトというような香料入りの両切紙巻が流行し出して今のバット・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・結局は紙巻き煙草を二箱買わされることになった。 音楽が水の上から聞こえて来る。舷側から見おろすと一隻のかなり大きなボートに数人の男女が乗って、セレネードのようなものをやっている。まん中には立派な顔をしたトルコ人だかアルメニア人かがゆるや・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・彼女は紙巻工であった深水の嫁さんの同僚で、深水の結婚式のとき、てつだいにきていた彼女を、三吉は顔だけみたのである。「どうだあの子、いままで男なんかあったか?」「そんなこと――」 くっくっと嫁さんは笑いこけている。――ないでしょう・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ 吉里は紙巻煙草に火を点けて西宮へ与え、「まだ何か言ッてるよ。ああ、いやだいやだ」「またいやだいやだを始めたぜ。あの人も相変らずよく来てるじゃアないか。あんまりわれわれに負けない方だ。迷わせておいて、今さら厭だとも言えまい。うまい言・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・と云って、犬塚が紙巻の燃えさしを灰吹の中に投げたのを合図に、三人は席を起った。 外を片付けてしまって待っていた、まかないの男が、三人の前にあった茶碗や灰吹を除けて、水をだぶだぶ含ませた雑巾で、卓の上を撫で始めた。・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・一体気分が好くないのだから、こんなことを見付けて見れば、気はいよいよ塞いで来る。紙巻烟草に火を附けて見たが、その煙がなんともいえないほど厭になったので、窓から烟草を、遠くへ飛んで行くように投げ棄てた。外は色の白けた、なんということもない三月・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫