・・・これも順鶴と云う僧名のほかは、何も素性の知れない人物であった。 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・のみならず直孝を呼び寄せると、彼の耳へ口をつけるようにし、「その女の素姓だけは検べておけよ」と小声に彼に命令した。 三 家康の実検をすました話はもちろん井伊の陣屋にも伝わって来ずにはいなかった。古千屋はこの話を・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・ ところでお島婆さんの素性はと云うと、歿くなった父親にでも聞いて見たらともかく、お敏は何も知りませんが、ただ、昔から口寄せの巫女をしていたと云う事だけは、母親か誰かから聞いていました。が、お敏が知ってからは、もう例の婆娑羅の大神と云う、・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・……踊の稽古の帰途なら、相応したのがあろうものを、初手から素性のおかしいのが、これで愈々不思議になった。 が、それもその筈、あとで身上を聞くと、芸人だと言う。芸人も芸人、娘手品、と云うのであった。 思い懸けず、余り変ってはいたけれど・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・に来れば頭のてっぺんから足の先まで素早く一目の観察で、女の素姓や腕が見抜けるようになった。ひとり、どうやら臭いと思われる女給が来た。体つき、身のこなしなど、いやらしく男の心をそそるようで眼つきも据っていて、気が進まなかったが、レッテルが良い・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・「分別があれば、あんな怪しい素姓の女に参ったりしないわね。何さ、そわそわ時計を見たりして……。」「怪しい……? 何が怪しい素姓だ……?」「あら、あんたあの女の素姓しらないの?」 お加代の声はいそいそと弾んだ。「素姓み・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ 情夫かと思うと、夫婦だった。「太助」のお政も、その附近の者の顔ではない、別のタイプの男をつれて帰って来た。 素性の知れた、ところの者同志とでなければ、昔は、一緒にはならなかった。同村の者でなければ隣村の者と。隣村の者でなければ・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・自分は天の冥加に叶って今かく貴い身にはなったが、氏も素性もないものである、草刈りが成上ったものであるから、古の鎌子の大臣の御名を縁にして藤原氏になりたいものだ。というのは関白になろうの下ごころだった。すると秀吉のその時の素ばらしい威勢だった・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・満天星ばかりではない、梅の素生は濃い緑色に延びて、早や一尺に及ぶのもある。ちいさくなって蹲踞んで居るのは躑躅だが、でもがつがつ震えるような様子はすこしも見えない。あの椿の樹を御覧と「冬」が私に言った。日を受けて光る冬の緑葉には言うに言われぬ・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・何を公表しても差支えないわけでしょうから、それはどこの誰だと、はっきり明かしてしまってもいいとはいうものの、でも、いずれにしても、これは美談というわけのものでもないのですから、やっぱりどうも、あれの氏素姓をこれ以上くわしく説明するのは、私に・・・ 太宰治 「嘘」
出典:青空文庫